畔蒜泰助
研究員
筆者は、本連載第三回目 「シリア『テロ』戦争をめぐる米露『衝突回避』チャネル」 の中で概要、次のように述べた。
米露両国はシリアでの「対テロ」戦争において、2015年10月に締結した「シリア上空での安全に関する覚書」に基づいた軍同士の「衝突回避(de-confliction)」チャネルを創造的に活用することで、「衝突回避」以上、「協力(cooperation/collaboration)」未満の「協調(coordination)=分業(division of labor)」のフェーズに3月末の時点で突入しつつあった。そんな矢先に勃発したのが、シリアでの化学兵器使用事件だった。
化学兵器を使用したのはどちらか?
では、シリア北西部のイドリブで化学兵器を使用したのはどの勢力なのか? まず、ロシア軍が最初に指摘した反政府勢力が保管していた化学兵器をシリア軍が誤爆した可能性については、サリンの性質とその散布の状況からして、ロシアの複数の有識者もその可能性は低いと指摘している。とすると、やはりアサド軍が使用したのか、それとも反政府勢力が使用したのか、のどちらかになる。
今回の事件が勃発する直前の3月30~31日の時点で、米トランプ政権がアサド政権の退陣を求めないとの立場を明確にしていたことから、このタイミングでアサド政府軍が化学兵器を使用する合理的な理由はなく、むしろ追い込まれている旧アル・ヌスラ戦線を筆頭とする過激な反政府勢力、あるいはこれを支援するサウジアラビアやトルコがこれを仕掛けたのでは、との見方がある。 [i]
一方で、アサド政権、あるいはこれを支援するイランの側にも動機がまったくなかったわけではない。というのも、昨年12月のロシアとトルコが主導したアレッポ陥落とシリア停戦協定の締結以降、シリア内戦の停戦・和平フェーズへの移行をロシアが積極的に進めようとするなかで、反政府勢力との政治的妥協を嫌い、あくまで軍事的なシリア全土への支配の回復を目指すアサド政権はもちろん、同政権下のシリアを自らの影響下に置き続けたいイランもまた、シリア内戦の停戦・和平フェーズへの移行には必ずしも積極的ではなかったからだ。特に、シリアでのロシアとの協力を掲げたトランプ政権が発足する今年1月以降、アサド政権とイランは、 前述した アル・バブやマンビジでの米露の事実上の協力に向けた動きを目の当たりにし、ある種の危機感を感じていた可能性は十分にある。 [ii]
興味深いのは、ロシア大統領府のドミトリー・ペスコフ副長官兼大統領報道官も米軍がシリア領内へのミサイル攻撃を実施する直前、米AP通信とのインタビューの中で、次のような非常にニュアンスを込めた発言を行っていたことだ。 [iii]
・ロシアによるアサド支持は無条件(unconditional)ではない。
・ロシアは自らが望むこと全てを行うようにアサドを説得できる訳ではない。
この発言を深読みすれば、実はクレムリンも本音ではアサド政府軍が化学兵器を使用した可能性を疑っていたとも読み取れる。
米露「協調」の一時停止に反応したトルコ
いずれにせよ、イドリブでの化学兵器使用事件の3日後の4月7日、トランプ政権はシリアへのミサイル攻撃を実施した。これに対して、ロシア政府は上記「覚書」の一時停止を発表した。もちろん、これはシリアにおける「対テロ」戦争での米露の「協調=分業」フェーズへの移行プロセスの一時停止を意味した。
よって、この直後に予定されていたレックス・ティラソン米国務長官のモスクワ訪問の最大の焦点は、シリアにおける「対テロ」戦争での米露の「協調=分業」フェーズへの移行プロセスが再開されるかどうかにあった。
4月12日、ティラソン米国務長官がモスクワでラブロフ首相、プーチン大統領と会談した。会談後の共同記者会見の内容から判断して、米国側から、今回のミサイル攻撃はあくまでアサド政権への牽制の意味で行われたもので、同じような事件が再発しない限り、これを継続する意向はないこと、アサド問題についても現段階での退陣は求めないことがロシア側に伝えられたと思われる。これを踏まえて、ロシア側が一時停止していた「覚書」は翌4月13日に再開された。 [iv]
ところで、本連載第二回目 「シリアでの化学兵器問題勃発前夜の米露関係」 でも詳述したように、トルコはティラソン米国務長官のアンカラ訪問前日の3月29日、「ユーフラテスの盾」と名付けたシリアでの軍事作戦の終了を発表していた。ところが、4月4日のイドリブでの化学兵器使用事件の発生を受けて、同日、トルコはシリア国内での軍事作戦を再開する。そして4月25日には、イラクとシリアで同時にクルド人民防衛隊(YPG)の支配地域への空爆を実施した。これに対して、YPGはシリアでのトルコ軍からの攻撃が続く限り、ラッカ陥落作戦には参加できないと米軍に通達した。イラクに近いシリア北東部であれば米軍がトルコ軍の動きを抑制することは可能だが、シリア北西部には米軍の拠点がないので、特にクルド勢力が支配するシリア北西部のアフリン州へのトルコ軍の攻撃には米軍は対処できず、ロシア軍との「協調=分業」が不可欠である。
5月2日の米露首脳による電話会談
そんな状況下の5月2日、トランプ大統領とプーチン大統領の電話会談が行われた。ここで注目すべきは、ロシア側が発表したReadoutの中で「シリアにおける国際テロとの闘いでの ロシアと米国の将来的な協調行動( future coordination of Russia and US actions to fight international terrorism in the context of the Syrian crisis )」という表現が使用された点である。 [v]
冒頭で述べたように、今年3月末の時点で、米露両国はシリアでの「対テロ」戦争において、「協調=分業」フェーズに移行しつつあった。ところが、4月4日のイドリブでの化学兵器使用事件とこれを受けた米軍によるシリア領内へのミサイル攻撃によって、米露による「協調=分業」フェーズへの移行プロセスは一時停止を余儀なくされた。だが、このロシア政府が発表したReadoutの内容は、この流れの再開が米露両首脳の間で確認されたことを示唆している。
ここで注目すべきは、この同じ5月2日、前述したクルド勢力が支配するシリア北西部のアフリン州にロシア軍が駆けつける映像がロシアのインターネット・メデイアのウェブサイトで公開された。 [vi] しかも、その翌日5月3日にはプーチン大統領とトルコのエルドワン大統領の首脳会談がソチで予定されていた。
おそらく、この米露首脳による電話会談では、直接トルコ問題について言葉が交わされることはなかったであろう。特に米国のトランプ大統領が曲がりなりにもNATO加盟の同盟国であるトルコをめぐる問題を、非同盟国のロシアのプーチン大統領と話し合うというのは常識的に考えてもあり得ない。ただ、米露両首脳はトルコという言葉をお互いに発しなくとも、一連の行動を通じて、その戦略的なコミュニケーションを成立させていたと見る。
ちなみに、トランプ大統領も5月16日にトルコのエルドワン大統領との首脳会談を予定していたが、これを待たずに5月9日、クルド人民防衛隊(YPG)への本格的な武器供給に関する計画を承認している。
米国側が発表したReadoutの中には、5月3-4日にアスタナで開催されるシリア停戦会合に米国政府の代表を派遣すると共に、同会合での主要議題である緊張緩和地帯(de-escalation zone)についての会話があったことが記されている。 [vii]
そして、5月3~4日、ロシア、トルコ、イランの3か国を主催者としたアスタナでのシリア停戦に関する会合(アスタナ会合)が開催され、シリア国内4か所に緊張緩和地域(de-escalation zone)を設定することが合意(以下、アスタナ合意)された。 [viii]
( 地図はこちら )
前述のように、5月2日の首脳間の電話会談をもって、シリアでの「対テロ」戦争での「協調=分業」フェーズへの移行プロセスの再開を確認しあった米露両国は、このアスタナ合意をめぐっても協調できるのだろうか? というのも、6月18日にラッカ近郊上空で発生した米軍機によるシリア空軍機の撃墜事件が勃発したことで、ロシア政府は翌19日、「覚書」の一時停止を再度発表したからだ。 [ix] これについては次回詳述する。
[i] ピューリッツァ賞受賞の米国人ジャーナリストのセイモア・ハーシュは、オバマ大統領(当時)がシリアへの軍事攻撃実施寸前までいったきっかけとなった2013年8月21日のダマスカス近郊でのサリン使用攻撃を行ったのもアル・ヌスラ戦線であり、その背後にトルコとサウジアラビアがいた可能性を指摘している。Seymour M.Hersh, The Red Line and the Rat Line. London Review of Books, Vol.36 No.8. 17 April 2014.
[ii] レオニド・イサエフ国立研究大学高等経済学院上級講師は、反政府勢力と同様にアサド大統領やイランにも化学兵器を使用する動機はあると指摘する。Леонид Исаев, Николай Кожанов После химии и ракет. Как меняются позиции России и США по Сирии. Московский Центр Карнегии.
[iii] Moscow’s support for Damascus ‘not unconditional’, Assad doesn’t follow Russia’s orders - Peskov. 6 April, 2017. RT.
[iv] США захотели восстановить сотрудничество с Россией в небе над Сирией. 25 апреля 2017. Известия.
[v] Vladimir Putin had a telephone conversation with President of the United States Donald Trump. May 2, 2017. 露大統領府HP
[vi] СИРИЯ: РОССИЙСКИЕ ВОЕННЫЕ ПРИБЫЛИ В АФРИН. May 02, 2017. https://news-front.info/2017/05/02/siriya-rossijskie-voennye-pribyli-v-afrin/
[vii] Readout of President Donald J.Trump’s call with President Vladimir Putin of the Russian Federation. May 02, 2017. 米大統領府HP
[viii] ①イドリブ県と近隣のアレッポ、ラタキア、ハマの各県の一部、②ホムズ県北部、③ダマスカス近郊の東グータ地方、④シリア南部のダルアー県とクネイテゥラ県の4か所。同合意の発効は5月6日とされた。
[ix]Война без меморандума. June 20, 2017. Ведмости