インタビューシリーズ「障害者の自立を考える」:垣内俊哉さん <後編> | 研究プログラム | 東京財団政策研究所

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インタビューシリーズ「障害者の自立を考える」:垣内俊哉さん <後編>

December 19, 2012

入試直前の骨折を乗り越えて

最初に選択した大学はバリアフリー施設が完備されておらず、進学を断念する。しかし、車椅子で通える立命館大学経営学部を後期試験で受験。試験の1~2週間前に骨折し、寝たきりで試験を受けるハプニングに見舞われながらも見事合格を果たした。

最初は進学が危ぶまれるぐらいの偏差値でしたが、毎日12時間近く勉強してセンター試験間近には偏差値が60近くに達していました。そこで、以前からホームページを作れたので、将来の起業も考えて関東地方の私立大学の情報ネットワーク学部でIT系のことを学ぼうと考えました。そこはセンター試験だけで合格できる大学だったので、通うことを決めました。合格通知を貰って天にも昇る気持ちで、大学の下見と入学後のことについて職員の人と話し合うために上京すると、急勾配なスロープと狭いエレベーター、入り口に段差のある教室が多く、車椅子で生活できる環境ではありませんでした。私も事前に大学の担当者に電話して、「バリアフリー施設はありますか?」「車椅子でも大丈夫ですか?」って確認したら「あります」って返答を貰っていたんです。それを真に受けて大学に行ったんですが、私が使える代物ではない「何ちゃってバリアフリー」でした。そこで、入学金をドブに捨てて断念して、同じ障害がある弟と大学を20~30カ所ぐらい回ったし、資料請求とか、問い合わせもやって、立命館大学の「びわこ・くさつキャンパス」(BKC)が車椅子で便利そうだったし、経営学部のアントレプレナー(=起業家育成)コースで経営を学べるという部分で受験しました。まだ後期試験がギリギリ残っていたので願書を出したんです。

でも、試験の1~2週間前に骨折したんです。予備校から帰って来て、中津川の駅から駐車場までの道のりで車椅子が倒れて。「もう受験まずいな」って救急車で、ずっと考えていました。結局、愛知県の病院に入院したのですが、大学に「名古屋の予備校で受験できますか?」と聞いたら、「もう無理です。特別対応はできません」と言われたので、入院している病院から試験会場の滋賀まで行ってテストを受けたんです。試験は寝たきり状態。しかも別室受験じゃなくて普通の教室の一番前でした。だから周りの学生は「なんじゃ、こいつ」と思ったハズです(笑)。試験はセンター試験の結果と小論文。小論文は90分と時間も長いですし、文字数を書かなきゃいけない。寝たきりで受験したのは相当疲れた記憶はあります。でも、寝たきり状態でも試験を書き切るトレーニングを入院中にやっていたんで何とかやり遂げました。最後の問題だけ文章が短くなったのが不安で、民間の救急車で名古屋まで帰ったんですが、その中で心臓がバクバクしていたんです。落ちたら浪人ですから。でも、2~3週間で合格通知が発表されて。当日は掲載予定の30分前から大学のホームページにアクセスして、1分ごとぐらいに更新していたので、受験生の中で私が最もアクセスしたかもしれませんね。結果は「合格」。もう号泣でしたね、ナースコールを押して、みんなで喜んで貰って。歩くという目標に全力で努力したが叶わなかった。でも、この時は努力して結果が出たので本当に嬉しかった。

入学後は社会人経験に重点

入学後、起業という目標に向かって大学の授業に加えて、アルバイトをやりながら社会人経験を積んだ。「ブラックを通り越して漆黒」と評するベンチャー企業で猛烈に働いた経験が今に繋がっているという。

合格は決まりましたが、入院していたので下宿先のアパートを下見できませんでした。一人暮らしのアパートは車椅子に乗っている弟に選んで貰って、2008年4月から滋賀で一人暮らしを始めたんです。しかし、一人暮らしの生活は味気なかった。実家だったら美味しい食事も、お風呂も全部準備されている。その時に当たり前だった家族の有り難みに気付きました。それまでは親に意地を張っていた部分もあって。そもそも親とは疎遠になっており、「なぜこんな体に産んだんだ」「なぜもっと早くいい病院に連れていってくれなかったんだ」と思っていたところがあったんです。闘病期間中に母から「許されるとは思っていないけど、あなたと話したい」と手紙を貰っても、事務的に「退院することになったから」と連絡しただけだったんで、親不孝でした。しかし、いい意味で両親は放任主義でした。高校を中退して大学まで入った。「もうこいつならなんでもできるな」と思って貰えたと思うんです。色々と反対されてきましたが、しっかりと自分でできる姿を見せ続けたことによって、「こいつ大丈夫だ」と親も思ったみたいです。でも、実際に両親は不安だったと思います。例えば車椅子で生活する時、やっぱり不自由は多いですから。お風呂を沸かすことも、湯船を洗うこと一つ取っても不便。食事を作ろうとすると、キッチンは高いので大変。人の数倍時間がかかってしまいます。でも、一人暮らしについても、会社作る時も一言も反対もしなかったです。今は本当に信頼し切ってくれているところはあります。

大学は殆ど通いませんでしたね。4年間を通じてトータルで40~50日ぐらいかな。テストしか受けていないんです。でも、社会人経験は積みました。企業が大学の構内に入居できる「インキュベーションルーム」のことを知り、コンビニで買った履歴書を持って「経営学部の学生です。働かせて下さい」と言ったら、「HTMLが書けるなら来てくれたらいいよ」と言って頂いたので、そこからがスタートでした。昼間はホームページ制作会社の営業、夜も別の会社でシステムや服のデザインのアプリケーションを組んだり。このインキュベーションルームはタチが悪いことに一階にお風呂があるんです。そうなると家に帰らなくても良くなる。土曜日か日曜日に家に帰って服を洗濯して(笑)。もう一週間、家に帰らない。ずっと会社のソファで寝ているみたいな生活を1~2回生の初めぐらいまで続けました。どちらもベンチャー企業で、「ブラック企業」どころか漆黒のような会社でどぎつかったです(笑)が、「働かなきゃいけない」っていう意識と、「専門的な事を学びたい」という希望を叶えられた点で、立命館に進学したのは正解だったなと。

しかも、昼間の営業では成績が良くって、「車椅子で営業に来るやつなんて、おまえだけなんだから、そりゃ覚えてもらって当たり前」と社長に言われて、バリアがバリューになることを知りました。歩くことに踏ん切りは付いていたとはいえ、「まだ歩きたい」と思っていたし、今でも思うことはあります。未だに自転車に乗りたいとか、ワールドカップを見てサッカーをやりたいとか。未だに思うことはたくさんありますが、経営者の人から「歩けないことでウジウジ言ってんな。ビジネスマンなら自分のコンプレックスはポケットにしまっておけ。おまえが車椅子に乗っているのは不自由かもしれないけども、実際に仕事取って来ているじゃないか。お客さんに覚えて貰っているじゃないか」と言われた時、「そんな見方もできるんだな」と思って。そうした見方をしようと思えば、いくらでもできた。今の事業に繋がっていますし、車椅子の視点だからこそできること、視覚障害でも人の話をしっかりと聞くのでテレアポをやってみたり。障害をマイナスだけじゃなくて、プラスの価値や強みとして置き換える一つのきっかけを頂いたなと思います。

大学に対してバリアフリー改善提案もやりました。全般的にキャンパスは平坦なんですが、扉が重いとか、開閉ボタンの高いエレベーターが結構多い。学生が飽和状態にあるので学食に行っても人が多過ぎて食べられない。そうした不自由をいっぱい抱えていたので、1回生の夏口だったんですけど、学内パーッと回って、「ここは不便」「ここはこうした方がいい」「ああした方がいい」ってまとめて、経営学部事務室施設管理科に渡しに行ったんです。真っ先にパソコンルームにスロープができたことと、自分がよく使う教室の扉が軽くなった。バリアフリーに関しての成功体験はここからですね。それと、同じ頃に携帯電話会社が主催するビジネスコンテストに参加し、私達のチームは携帯端末を使ったバリアフリー情報の収集と発信というプランで準優勝を獲得しました。克服しようとしていた障害が大きなチャンスを秘めていることに気付いた瞬間です。

2回生の時、年を取ると発症する神経系の病気が分かりました。自分の中で何となく理解していたんですが、確定的になって漸く本気になりました。自分で電卓打ちながら「あと残り何日かな」って計算して数字を眺めている時、辛くなって涙を流して。でも、その時は死のうとまで思わなかった。「今から自分に何ができるのか?」「両親のために何ができるのか?」「奥さん、子供がいたらどうなるのか?」と色々と考えて、滋賀のマンションの一室でバシッと覚悟が決まりました。この日まで嫌いな自分を好きになるために起業を考えていましたが、そんなブラックパワーには限度があります。残された時間は「自分のための時間」だけじゃなくて、「誰かのための時間」でもあることに気付き、そのために過ごすことを決めたんです。

民野さんとの出逢いと起業への道

さらに、最後の目標である「同志」も見付けることができた。現在、ミライロの副社長を務める民野剛郎さんだ。障害者雇用やNPO(民間非営利団体)の在り方に疑問を持った垣内さんは冷静沈着な民野さんとコンビを組み、夢だった起業に向けて走り出す。

民野は大学1回生の時にクラスメートだったんですけど、「イケメンでしゃくだな。背、高いし、なんだこの野郎」「決して交わることのない人種」という印象だったんです。でも、色々と腹を割って話した時、「こいつは本気でやれるヤツだ。一緒にやっていきたいな」って思ったんです。それから私はインキュベーションルームの会社を辞めて、民野と事業計画を考え、学生の身で起業に取り組む日々に入ったわけですけど、いい出会いだったと思います。私は常に気の向くまま思いのままって感じで熱血系で仕事をしていますけど、民野は計画的にやってくれています。会社の数字を守ってくれているのは民野の方ですし。私は講演とか呼ばれたら「タダでも行きますよ」なんて言っちゃいますけど、「おまえ、待てよ」と止めるのが民野なんです。既に学生の時点で起業することを考えていたので、最初は「VAN」という学生団体として事業計画を考えて、ビジネスプランコンテストに応募しました。フリーペーパーやイベント開催といった大学生が考えがちなアイデアは面白くないと考えて、私自身の幾つかの経験から事業計画を練りました。まず、考えたのはバリアフリーマップの制作です。全国各地でチラホラ進んでいますが、長続きしない。制作物自体がお金を生まず、ビジネスとして回っていないためです。福祉は社会性ばかりにフォーカスが当てられるため、経済性を伴わずに途中で息切れするケースが多いんですが、私達はしっかりと儲ける仕組みを作り、社会のために役立つものにしようと考えました。当時は創業メンバー5人でやっていたんですけど、ビジネスプランを書いて応募して評価して頂いて、30万円、50万円の賞金を得て、仲間がみんな半泣きで抱き合って喜んでいる姿を見た時、嬉しかったですね。子どもの頃の運動会ではみんなと喜べなかった、車椅子マラソンの大会でしか喜び合うことはできなかったのが、自分達の思い一つ、考え一つ、紙一つで、自分達のアイデア一つでみんなで喜び合えている体験が良かったなと。「ビジネスでやっていこう」と強く思えた時でした。仲間5人のうち1人は民野で、残りの2人は就職、1人は俳優を目指して、それぞれの道を歩んでいます。

私自身、一般企業の就職は考えませんでした。障害のある方々の話を色々と聞いたんですが、事務職しかしていないんです。私は全然営業で行けるつもりでいたんです。話を聞いた人には役所に勤めている方が圧倒的に多かったんですけど、仕事は伝票の整理とか。それで、「就職活動ってどうやってするんですか?」と聞くと、障害者雇用という枠から入るんだよと。その時に違和感があったんです。誰よりもうまくプレゼンできる自信がある、誰よりもビジネスアイデアをしっかりと考える自信がある、絶対に他の学生に負けるつもりはない。そんな自信があるのに、枠を変えられると聞いて「それは違うな」と。そうした一つの枠組みに入るのでなくて、自分の力でやっていこうと思った。それで障害者雇用という部分に疑問を持って変えなきゃいけないと思えたので、バリアフリーだけじゃなくて、障害者が当たり前に働ける社会を目指す「バリアバリュー」を考えました。うちの会社も今、障害者を何人か雇っていますが、全盲社員もガンガン営業に行かせています。それができるのが当然であって、そもそも障害者雇用枠なんてことを付けなくてもいい時代が来るかもしれないと思っているので。それを体現するため、私の会社は今、色々と取り組んでいます。

それとNPOの話も聞きましたが、「甘え切っているな」「本当にやる気あるのか」と感じるところが結構多かったですね。やっぱりバリアフリーとか、障害者福祉的な団体は助成金って下りやすかったりします。なので事業は上手く行っていないけど、助成金の申請だけ上手い団体が多かったので、「これじゃいけないな。絶対に一つも大きなことを成し遂げることができない」「生きるか死ぬか分からないような、そんな世界じゃないと成長もしなければ飛躍もしない」と感じて、株式会社としてビジネスでやっていこうと。それで事業計画を見せながら「これ、どう思いますか?」みたいなことを色んな経営者に聞きに行きました。学生だったからこそ話を聞いてくれたんですよね。所謂、ビッグネームとされる経営者の方々もそうでしたし、色々とアドバイス貰えました。そういった方々が支援者になってくれています。

民野と二人で会社を設立したのは2010年6月2日です。当時は大学生でしたが、取らなきゃいけない授業の数が減っていたし、週に1~2回通えば事足りる状態だったので、車椅子でもアクセスしやすいオフィスを選んで会社を大阪に置きました。今思えば「大学に進学して良かった」と思います。それまで地元の連中と絡んでいただけだったけど、色々な人と会えて自分の世界が広がる。色んな経営者が大学に話に来ると、「経営者カッコいいな」と思えたり。それは地元じゃ学べなかったこと。それと、大学で色んな人間と交流が増えたことが良かった。自分も「こういうことで困っています」「こういうこと、手伝ってください」と周囲に伝えていかなければならない。やっぱり社会性を身に付ける部分でも、可能な限り障害者も大学に行くべきだと思うんです。小学校、中学校、高校と狭いコミュニティで周りの人から助けて貰って当然の雰囲気ですから。起業という同じ考え方を持っているような学生と一緒に過ごしてモチベーションも維持できました。

障害者年金の一律支給は適切か?

垣内さんは一律に全ての障害者を「一方的に支援を受ける社会的弱者」と見なしがちな現行制度や団体の支援、両親の過剰な保護に疑問を投げ掛ける。一方、障害者の得意なことやできることにフォーカスを充てて、障害者が当たり前のように働ける環境を作る「バリアバリュー」の実現に向けて、社会の意識を変える「成功例」としての姿を示す気概を示す。

私達の会社も儲かっているわけじゃないですけど、経営者である私個人に障害者年金として8~9万円が毎月入って来るっておかしい。私は別口座で休眠させているんですけど、「どんなルールで運用しているんだ」「これに甘えている人もいるんじゃないか」と疑問を感じるんです。「障害者イコール一方的に支援を受ける社会的弱者」と一元的に捉えてしまっている状況には問題があると思います。障害者運動を展開してきた年配の方々の取り組みが今の社会を作ってくれていると思うし、自由に移動できる駅が増えたのも運動の御蔭と思っています。自立が困難な人には支援も必要です。でも、今の時代に求められている新しい形は運動論だけじゃない。やっぱり時代は変わっていくわけですし、色んな当事者が出て来ている中で、今までの「障害者=一方的に支援を受ける社会的弱者」というイメージの中だけでルール決めが行われているため、時代に即さないことが行われてしまうと思います。

障害者も変わる必要があると思います。子どもの頃から骨形成不全症の患者会で、車椅子に乗っている大人と頻繁に会っていたんですが、大人達をカッコいいと思わなかったんです。人権主張したりだとか、政府に頼り切りみたいな人であったりとか、周りの人に手伝って貰って当たり前とか、凄い疑問に思っていました。小学校5~6年頃、1泊2日の患者会のイベントがあったんです。宿泊したホテルで朝のバイキングの時、車椅子の大人の女性が健常な旦那さんに料理を取って貰っている姿が「取って貰って当たり前」のような姿で、「ありがとう」の一言もない。夫婦間で成立している関係なのかもしれないですけど、「助けて貰って当たり前と思っている人がいるんだ」と感じたんです。20歳くらいの人が、50~60歳の母親に車椅子を押して貰ったり、至れり尽くせりされている姿を見た時も「カッコ悪いな。いつまで父親、母親に全部して貰っているつもりなんだ」と思ったんです。私は「できることは自分でやろう」という意識だったので、バイキングの時も汁物以外、全部自分で取ります。自分でテーブルまで持って行くと危なっかしいですが、できるんです。片や周りの人に助けて貰って当たり前みたいな大人に疑問を持ちました。私と弟は「ダサいよね」と言っていたんです。

こんなことを言うと、「垣内さんは立命館大学も出て、車椅子も自分でこげて、障害者エリートじゃないですか。他は違います」と言われます。でも、まだまだできることはいっぱいあるのに、それらをやらないうちに障害があることを「自分が弱者だから守って貰って当然」と言い訳にしているんじゃないかと。確かに自立が難しい人はいます。私だって支援が必要な時もあります。しかし、今までは障害者を「一方的に支援を受ける社会的弱者」と見なして支援してきた人達は可愛く育てる、支えてあげる、守ってあげることを当然としているので、そうした意識も変えていかなきゃいけないと思っています。

そもそも、障害者は「憧れ像」が少なかったんじゃないかなと思うんです。だから「成功例がもっともっと出てこなきゃいけないな」と常々思っているので、「そうした一人になれたらいい」と思っています。それと、どんな障害だとしても必ずそれぞれが輝ける場は絶対にある、努力一つでできることは絶対ある。確かに自立したくても困難な人もいます。そういった人には特別な手立てが絶対に必要です。でも、自立できるのに動いていない人もいる。努力しなければ道が開けないことが多い中で、周りに対して何か殻を破り切れていない障害者が多い。障害のある方のツイッターやブログをよく拝見しますが、「社会がこうしない」「法律がああだ、こうだ」といった文句が多い。でも、「つぶやく時間があったら何かしろよ」って思うんです。自分が変わらなければ他者は変わらない。私も歩けない現状を把握し、一日に飛び込み営業をできたとしても30~40件。でも、限界を把握してできることをやっている。そりゃ街中の不満や不安はいっぱいありますけど、自分で変えていけることはある。

それと、親の意識も変えないといけない。障害者の子どもを持つ親は子どもに一人暮らしさせたくない。一人暮らしの場合、親がご飯、洗濯、買い物をやってくれる。でも、親元を離れる時、「何処のスーパーなら行けるのか?」とか、遊びに行く時には自分の力で移動しなければならないので調べたり。自分でお金を使って色々な物を買って生活するのは凄くいい経験でした。私の親も最初は不安だったと思います。車椅子の生活は不自由が多いですから。しかし、いつか親も子どもを手放さなきゃいけない。自立できる障害者を可能な限り納税者にしていかないと、親がいなくなったら社会の厄介になるしかなくなる。子どもに一人暮らしさせることは親にとっても一つの試練だと思うんです。今は障害者が外に出やすい環境も、入れる大学も整備されている。一人暮らしも工夫次第でできる。だからこそ親も勇気を出して、本人と一緒に一歩踏み出さなきゃいけないんじゃないかと。障害者の苦手なことやできないことだけにフォーカスを当てるのではなく、得意なことやできることにフォーカスを充てて、障害者が当たり前のように働ける環境を作り、社会全体の意識を変えるのが「バリアバリュー」の考え方です。ミライロではバリアフリーのコンサルティングだけでなく、障害のある子供さんを対象にした進路相談イベントも開催しています。「ミライロがあるから社会が変わった」「垣内さんみたいな人がいるんだな」「こういった形で大学進学できるんだ」と、ミライロの事業を通じて発信していけたらいいなと思っています。

    • 元東京財団研究員
    • 三原 岳
    • 三原 岳

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