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インタビューシリーズ「障害者の自立を考える」:垣内俊哉さん <前編>

December 11, 2012

垣内俊哉さん(株式会社ミライロ 代表取締役社長)インタビュー概要

日時: 2012年10月16日
インタビュアー : 三原岳 (東京財団研究員・政策プロデューサー)
石井靖乃(日本財団国際協力グループ長兼公益ボランティア支援グループ長)

「障害者の自立を考える」インタビュー企画の第1回は関西を中心に、バリアフリーのコンサルティング業務などを展開している「株式会社ミライロ」代表取締役社長の垣内俊哉さんに話を聞きました。垣内さんは骨形成不全症という先天的な障害で車椅子を使って生活していますが、立命館大学在学中にミライロを創業。現在は大学やホテル、結婚式場などに飛び込みで営業に入り、障害者や高齢者、ベビーカーを押す子育てママなど移動に困難を抱える人にとっての障害を除去できないか調査し、改善に向けて助言しています。同時に、大学などのバリアフリーマップ作成や障害者の進学支援に向けた説明会の開催、家庭教師派遣といった事業も展開しています。障害を社会から取り除くバリアフリーだけでなく、障害を価値に変える「バリアバリュー」を理想に掲げる垣内さんに生い立ちや大学進学・起業化に至った動機、障害者の社会参加などを聞きました。

母親の付き添いが条件に

就学の際、養護学校(現在の特別支援学校)に行くよう教育委員会に求められたが、母親が粘り強く交渉した。幼稚園~小学校の間は楽しい記憶が多く残っているという。

生まれは愛知県の安城市です。母方の実家があり、私が生まれたことを契機に父方の実家の岐阜県中津川市に移って来ました。誕生日は1989年4月14日。現在は23歳で、今年3月に立命館大学経営学部を卒業しました。障害が分かったのは生まれて1カ月ぐらい。夜泣きが収まらなくて病院を回った結果、骨が折れていることが分かったんです。色々と病院を回っていくと、骨形成不全症であるということが分かりました。父親も同じ障害なので、遺伝することも大体予測できていたみたいですけど。それでも幼稚園の頃は活発に動いており、サッカーやリレーに参加していました。小学校の時も、松葉杖を突きながら通学しており、小学3~4年生ぐらいまでスタスタと歩いていました。要は歩けなくなったわけじゃなくて、歩かなくなったんですよ。友人とぶつかって骨折することが多かったんで、病院に行きたくなかった。車椅子に乗っていた方がぶつからなくて済んで安全で怪我しなくて済む。しかも入院すると、学校の勉強に付いて行けなくなる。そもそも骨折は痛いですから。入院したくなかったんで歩かなくなり、それから車椅子に依存する生活が始まり、段々歩けなくなった。圧力をかけないと、骨の成長も止まるんです。案外、車椅子でも何でもできてしまうような時代にあるので、当時の自分は「歩かなくてもいい」と思ったんです。父親は逆だった。20歳を超えると骨が安定する。「もっと歩かなきゃ」と積極的に歩き続けたので、父親は今、歩けています。私も幼少期、本当に歩くことにしっかりとこだわっていたのであれば、今は違う現在があったのかもしれません。

小学校は地元の普通学校に通いました。今でこそ、健常児と障害児が共に学び合う「インクルーシブ教育」と言われているだけあって、肢体不自由児は普通学校にすんなり入れますけど、当時はそうじゃなかった。「周りの子ども達とぶつかって怪我したら危ないから養護学校へ行って下さい」と。私の母は「普通の幼稚園に行ったので、できないことはない」と懸命に教育委員会と議論を交わし、学校の先生達、校長先生に色々と思いを伝えて、結果的に受け入れてもらったんです。しかし、学校から「付き添いがないとだめだ」って言われていたので、母も半年ぐらい私と一緒に通っていました。その後、先生も怒りづらいとか、やりづらいのがあって、「お母さん、もう来なくていいです」と言われ、いつの間にか来なくなっていた(笑)。それと、私もやりづらかったですし。小学校生活では毎日、楽しいイベントが目白押しで、本当に楽しかったことを覚えています。小学校にエレベーターや昇降機(=車いすごと持ち上げる機械)はなかったので、もっぱら先生や友人に運んでもらって。

中学校は小学校と目と鼻の先でした。この時も「一応、付き添いが毎日要る」というようなことは言われていたんですけど、母親は結局、一日も付いて来なかったですね。小学校と中学校が近かったので、先生同士の共有もあったみたいで、「垣内君は大丈夫そうだよ」という情報がシェアされていたようです。これは小学校、中学校内だけでの情報共有でしたが、社会全体の情報共有になれば変わって来ると思う。「車椅子だろうと、こういうことをしたら大丈夫」「聴覚障害の子でも、こういうことをしたら普通に実は学べる」といった情報共有はもっとなされていくべきですよね。中学校の進学に際しては、当時は殆ど歩けない状況になっていたので、倉庫を多目的トイレに改造して貰った。それ以外の部分で、段差があるところはスロープを設置したりして。

修学旅行の2日目は一人で帰宅

しかし、教員から特別扱いされる場面は少なくなかった。中学校の修学旅行で別日程を余儀なくされたことと、友達とやった悪戯を自分だけ叱られなかった時のことが印象に残っているという。

中学校の修学旅行は広島でした。初日は市内で、2日目が離島だったんです。その時、「親の付き添いがないとだめ」と強く言われていて。私は「付き添いがなくても行ける。友達もやってくれる。だから特別扱いするな」って先生に言ったんです。その時、先生が言った言葉が凄く印象的で、今でも忘れないんですけど、「あなたを特別扱いするなということが特別扱いすることになる」と。つまり、「そもそもあなたは特別な存在なんです」という姿勢だった。結果的に私は離島に行かなくて、初日だけで帰ったんですけど、その時の修学旅行は凄い色んな思いを持った。とりわけ障害者と呼ばれることとか、歩けないことに対する限界や社会の壁を強く感じたのはその時でした。ホテルの前で同級生を見送りつつ、「絶対に歩けるようになろう」と自分に誓いました。しかし、先生の立場から見れば仕方がない部分もあったと思うんです。昔、障害者と健常者は別次元の人だった。そういった価値観を当然としてきた人達にとって障害者は「一方的に支援を受ける社会的弱者」という認識ですから。

それと、もう1つ特別扱いされたこととして、印象に残っている出来事があります。それは消しゴムを使って野球をして掃除をサボっていた時、先生から怒られなかったっていう話です。中学校2年生の時、友達と掃除をサボって遊んでいることがクラスで問題となりました。しかし、担任から「とし君(=垣内さん)は障害者だから給食当番や掃除をできなくて仕方がない」と特別扱いされたんです。先生が言うにはなんてことないんですけど、それに同調されて友人から「障害者」と呼ばれるのが嫌だったんです。そもそも先生については、「何か価値観が違うな」と何となく認識していたので。ただ、「俊哉君は障害者だからやらなくていいんだよ」という論調になってしまうクラスの雰囲気が壁を作ってしまうのが嫌だった。今、中学校、高校に講師として呼ばれる時も「人権教育」みたいな形で呼ばれたりするんです。そもそもそんな重々しいテーマでやっていたら、やっぱり「障害者」「健常者」って壁ができてしまうと思うんです。結局、それで「障害者は全て可哀想な人で、一方的に支援を受ける社会的弱者」みたいな印象を根付かせる。本当に社会を良くしていくには、大人が「障害者とどうやって生きていくのか」ということを子ども達に見せていくことが大切なんじゃないかと。

車椅子マラソンの上位入賞が励みに

体育の授業や運動会で一緒に動き回れない時、「養護学校に行くべきだったのでは」との考えが去来した。インクルーシブ教育の重要性に理解を示しつつも、例えば普段の授業で車椅子バスケを取り入れるといった工夫が障害者と健常者の相互理解に役立つと指摘する。

授業での体育ですが、小学校の時には基本的に全部何とか参加していました。ドッヂボールやキックベース、ゲートボールも。しかし、バレーなど速さを求められるのでできなかったり、バスケもできなかったりして、フラストレーションが溜まりましたね。運動会も一応リレーに出ましたが、他の子どもよりも短距離でした。リレーも一番早く走っている子はカッコいいじゃないですか。でも、自分は同じ土俵で戦えないことに対する悔しさがあった。当時、運動神経に自信があったので、「養護学校で車椅子同士の子ども達であれば、俺は全ての種目で一位だったんじゃないか」なんてことを考えたりしました。車椅子に乗るようになった後も体育の授業は基本的に見学で、酷い時には教室にいました。同じ土俵で戦えないのが凄くもどかしくて。それでも中学3年生か高校1年生の時に初めて出た「名古屋シティハンディマラソン」という車椅子マラソンの時に「車椅子でもいっか」と最初に思えたんです。名古屋市内のテレビ塔近くの道路を封鎖して開かれるんですが、2位か、3位だったんですよ。その時に「車椅子に乗って何かをするだけで、こんなに嬉しいのか」と無性に嬉しくて。車椅子でも活躍できるフィールドや機会があることを知ることができたのは本当に良かった。

少し先の話ですが、大学生になった後に1~2回生の学生が車椅子バスケなどを受ける授業があったんですけど、当時から私は車椅子バスケをしていたので、講師みたいな感じで全四回くらい教えたんです。すると、みんなが車椅子バスケの楽しさに気付き、最後は他の大学と試合をやったんです。試合は一般の学生も100人ぐらい来て、「あんな距離から打てるのか!」とめちゃくちゃ盛り上がった。それまで私も「障害者イコール全て弱者」と思っていましたし、助けて貰って当たり前なんて思っていましたが、スポーツを通してであれば感心させられることばっかりで。もう殺されるくらいの勢いで、車椅子をボーンとぶつけられたりした時に、「この人達とは生半可な気持ちじゃ接することできないな。自分も本気でぶつからなきゃいけない」という感覚になりました。その延長線上で立命館に車椅子バスケットボールのサークルもできました。車椅子の人間は私だけでしたが、ほかは全員健常者。やっぱり「健常者が車椅子バスケをやると障害者に対する理解を促進する」と思うんです。高齢者の疑似体験は授業でやりますし、それは良いことですが、楽しくないプログラムも多いんですよね。でも、車椅子のバスケもリレーも、やっていたら楽しいわけですよ。くるっくる回りますもんね。そもそも車椅子がどうやって進むのか分かっていない人がいるけど、「こういった視線から車椅子では社会が見えるんだな」と初めて分かるし、健常者も同じ車椅子になったら障害者に勝てない。この時に初めて対等と分かる。それと、ここまで腕を多用することは普段ないので、今まで普通に歩いている人が乗ったら次の日は確実に筋肉痛。私達がやっても普通なんですけど、「腕が上がらない」という状況を経験した時、「車椅子ってこんな感じなんだ」と理解が進むと思います。だから健常な子どもも参加して年に何回か車椅子バスケができる授業をやると面白いですよね。地域の社協さんに何台か置き、小学校、中学校に貸出できるようにするとか。

印象に残る先生の指導

そんな中でも、中学時代の野球部の先生は大変印象に残る存在という。垣内さんを練習試合に出場させ、垣内さんの業務として割り当てたホームページやスコアブックの作成で手抜きを許さなかった。

野球部の先生は良かったんです。キャッチボールくらいしかできないし、公式試合には出られないんですが、練習試合では打席に立ちました。何故打席に立つかと言えば、ストライクゾーンが小さいので、フォアボール製造機(笑)。車椅子の人間ってボールの軌道が見えやすいんで、意外と打てます。最近、会社のスタッフとバッティングセンターに行ったんですけど、私が一番打っていました(笑)。しかし、実際の練習試合では走れないんで、ダメなんです。バットに当たっても走れないんで、フォアボール製造機としてしか起用されない。その後は代走で。それと、先生に言われたのがスコアラーとしての仕事。公式試合でベンチ入る時は適当なスコアを付けたり、ミスが多かったりした時に怒ってくれたんです。「それがおまえの仕事だろう。自分の仕事で本気にならなければ何ができる」と言って頂いたので、スコアに関する本を読みましたし、テレビで毎晩、巨人対中日みたいな野球中継を見ながらスコアを付ける練習をしました。それと、野球部の先生が、技術・情報科の先生だったんですけど、「野球部のホームページを作ろう」と提案してくれて。しかし、過去にもホームページがあり、全然イケていなかったんです。そこで、「おまえ、スコアだけじゃ面白くないだろう。OBも見たいって言っているから、ホームページを作れ」と、HTMLの本とパソコンをポンと貸してくれて仕事を任された。でも、本当に良かったなと思うんです。「仮にバットを振ってボールが打てなかったとしても、おまえは野球部に貢献できるんだ」と教えてくれた。そしてサボった時には怒ってくれた。

これまた良かったのが同じ先生の指導で、みんなでスロープを技術の時間に作ったんです。家から中学校まで7~8分の距離だったんですけど段差が多かったんで。それを先生が市役所に「通学路の段差が多い」と訴え出て、ベニヤ板やスノコを使いつつ、通学路の段差をみんなでアスファルト敷いて解消したんです。私は段差くらい平気な感じだったんですけど、「俊哉が帰る時に移動しづらい」と言ってくれて1・5キロぐらいの3~4カ所をアスファルトで詰めて、3~4センチの段差を解消しました。私自身も通学しやすくなりましたし、周りの子ども達が「こんなに2センチぐらいの段差が危ないんだ。ちょっとしたことで自分達でも直せるんだ」と体験できたんです。障害のある子ども達が小学校、中学校、高校を通して、どんな周りの人に巡り合って来るかがキーですよね。特別扱いされることに慣れてしまうのか、それとも自分でできることをしっかりとやるように怒ってくれたり、指導してくれたりする人に出会うのか。周りの友人も「一緒に遊ぼうよ」とガンガン引っ張ってくれるような心豊かな子ども達と出会えるのかどうかがキーですよね。

教師・親にプレゼンして高校を休学

地元高校に進学したが、4階建の建物を上り下りするのが苦痛になり、半年で休学を決断するとともに、歩行できるようにリハビリを決断する。

高校の校舎は4階建で、2階に予備の車椅子を置いていたんです。車椅子は7年に1回補助が出るので、買い換えができます。昔の車椅子が2~3台家に残っていたので、それを置いて階段の踊り場近くに置いていたんですけど、自分の体格に合ったものは多くないので、3階から4階は車椅子を運んで貰わなきゃいけない。その時に申し訳ないなと思っていたし、移動を見られたくないんです。当時は歩くこともままならなかったので、四つん這いで膝と手を付いて移動していたんですね。しかし、視線が低いので女の子のスカートが見えてしまうわけです。これがシャクなんです。普通にスカートが見えるのは「ラッキ~」なんて言えますけど、この状況で見えてしまうのが嫌なので、うつ伏せで前を見ないように上がって。しかも跪いて移動しているのを見られたくない。しかし、授業間の移動は必ずごった返しているので、なるべくみんなが通り過ぎてからだとか、朝は誰よりも早く通学していたし、帰るのも誰よりも遅く帰っていたんです。女の子が通っているんであればなおさらです。2~3時間目の授業が3~4階である時、朝の気持ちの曇りが半端じゃないんです。もう学校に行きたくない。一つ前の授業辺りから段々とドキドキしてくるんですよ。「また移動の時間が来る。今から誰に頼もうか」「今日、誰であれば車椅子持ってくれそうかな」「何処のルートであれば、今日は空いているかな」と。毎朝、毎晩「明日3階の授業があるな」っていう感覚が嫌で、「もう辞めよう」って思いました。

休学したのは高校1年生です。冬、先生と親に「垣内俊哉の進路考察3つのパターン」っていう書類を作ってプレゼンしたんです。仮にこのまま3年間高校を通い切った場合だとか、今辞めて自分がリハビリした場合だとか、自分が高校休学して辞めてリハビリしないと、俺の人生は滅茶苦茶になるみたいなことを論理的に正当化したかった。A4版の紙3~4枚ぐらいに、「自分がリハビリして歩く努力をしなければこうなるんだ」「こうしないと自分は絶対後悔するんだ」という資料をまとめて三者面談になって。エレベーターもないような学校で生活するのは嫌だったんですね。「辞めるな」と否定されましたが、休学して一年下の学年の子と一緒に勉強して同級生の卒業式を見るなんて絶対嫌だったので、そこから親と先生との戦いが1~2カ月くらい続きました。結果的に「休学して必ず大学進学するように」みたいな話で帰結したんです。

しかし、当時は歩くことしか眼中になかったんです。大学に行くことも、将来自分が何をするなんてこともどうでも良かった。この時、生きる意味の全てが「歩くこと」しかなかった。毎日の学校での移動、中学の時の修学旅行や運動会……。そうした積み重ねから「歩くことが絶対に必要」と思い込んだんです。やっぱり思春期も影響していると思うんです。周りと違うって嫌じゃないですか。女の子に見られたくないとか、周りの友人が部活で活躍しているだとか、周りの友人が放課後みんなでレストランやカラオケに行ったりしていても、それができないわけですよ。歩けないから歩けるようになりたいしかなかったんです。今は幸い考え方を転換できましたけど、インクルーシブ教育で思い詰めてしまう子が出てきてもいけないって思うんです。自分が他人と違うことに対して劣等感を感じ、「歩けない自分はだめ」と思ってしまうのはいけない。そのためにも小学校、中学校、高校と、個々人が不自由なく生活できる環境を整備しておかないと、思い詰めてしまう障害者が出てきてしまうんじゃないかなって。

励みになった入院患者の一言

全国各地のリハビリ施設を訪ね回って、最後は大阪の施設で手術を受けた。しかし、手術の結果は芳しくなく、垣内さんは自殺を考えた。

そこからリハビリできる施設を探して、全国各地のリハビリテーション施設とか、病院に関してはメールを入れて。お年玉を使って移動して、病院の先生に会って「歩けるようになるにはどうしたらいいんだ」みたいなことを聞いたり。当時、自分で行ったのは栃木、埼玉、東京、大阪、広島……と、色んな病院・施設を回って、自分が歩けるようになるにはどうしたらいいのかと。結果は大阪の先生にお願いすることにして、手術をしてリハビリをしてという流れでしたね。16~17歳の時です。今になって振り返ると、この機会が良かったと思っているんですよね。自ら何かを掴みに行こうとか、大きな夢や目的に向かってアクションを起こす姿勢を身に付けることができたので。「歩く」という目的に向かって、自分なりの全力で頑張ったという経験があったことが良かったと思います。仮に最初からエレベーターの完備された学校で生活していたら、違う人生だったんじゃないかって思うんです。自分が特別支援学校に行っていたら反骨精神を持たず、人の手助けを借りることが当たり前になっていたのかもしれない。だけど自分がどうやったらいいのか、何をしたらいいのか、行動を起こす状況になったことは良かったと思います。

しかし、8時間に及ぶ手術でも骨は全然治らなかったんです。長く使わなかった骨が極端に曲がっていたので、「骨切り手術」といって一本の骨を三等分にする手術を受けたんです。こういった手術をすると、1カ所はくっつくんですけど、もう1カ所はくっつきにくく、私の場合は両方くっつかなかったんですよ。当時は背が低いことも相当のコンプレックスで、手術から2カ月ぐらい経って「背はどこまで伸びるのか」と聞いた時、「背はもう伸びない」と担当医に言われて。ありとあらゆる現実を突き付けられたことで、その時の夜にバッと悲しい感情に見舞われて。そこからリハビリも進まないとか、ショックが頻繁に続いていたので、17歳の6月、10月、12月、3度に渡って自殺を考えました。1回目が病室で、10月と12月は一時帰宅している時だったので、近所の橋の上で。結局ビビって踏み込まなかったんです。ずっと泣いていた記憶があります。病室では4人部屋だったので、聞こえちゃいけないと思って、枕をグーッと押さえ付けて。10月、12月は寒かったんですけど、橋の上でワンワン泣いていた記憶があります。

でも、病室で一緒だった富松さんというおじいさんに6~7月頃、「君はどこまで景色を見たんだ」と声を掛けてもらいました。「まだまだ道半ばだろう。バネは縮んだ分だけ伸びるよ」と。その時、「もうちょっと頑張ろう」、そんな思いがしました。その言葉はずっと生きていたし、10月、12月の橋の上でも言葉が生きて今があると思います。当時、4年間ぐらいお付き合いしていた彼女の一言も凄く大きくて。「死にたいと思う」ってメールで一通入れた時、電話がかかってきたんですけど、向こうも号泣して「生きてよ」と。「歩けなくても、こんな自分でも求めてくれる人がいる」と思った時、「死んじゃだめだな」と思えたんです。自分を支える言葉があって、自分を求めてくれる人がいて。あの時は死なずに、今日があって良かったなと思いますね。

リハビリ地獄と方向転換

「歩く」ことを目指して猛烈なリハビリを続ける中、垣内さんは生きる目的を考え直す。その結果、漠然と考えたのが起業への道だった。そのためのステップとして大学進学を考える。

退院して愛知の病院に行きました。確かに自分は「歩けないかもしれない」と言われたけども、歩けるための努力を100%したのかと言えば、そうじゃなかった。もうリハビリ地獄ですよ。朝起きたら車椅子の後ろに20キロくらいの重りを付けて走ったり、昼間はプールに入って歩く練習をしたり、重りを付けて膝の屈伸運動をやったり。夜になって他の患者が減ったら、自分で歩ける動線が確保できるので、杖を突いて歩く練習して。そんなリハビリ地獄を送りながらも、やっぱり歩けるようにはならなかったので、「そろそろ目的を変えなきゃいけないな」って思いました。この時、ベンチャーが流行っていた時代なので、ボンヤリと幼稚な考えだったんですけど、「仮に自分が車椅子でも事業を起こして成功すれば自分を好きになれるかもしれない」「大金持ちになったら、街のスロープをいっぱい増やせるな、あそこにエレベーターを付けよう。中津川のカラオケ屋にエレベーターを付けられるな」と考えて。歩けないことが確信に変わったので、新しい道として起業という部分に憧れを持ち、そっちに踏み切ったんですね。生きる目的、夢、目標を転換した感じです。でも、本気でリハビリをやっていなかったら無理だったと思うんです。歩くことを本気でやっていなかったら、今まですら「歩けるようになりたい」と思っていたかもしれない。本気で取り組んだからこそ、踏ん切りも付いて「今は自分を変えるんじゃなくて社会の環境を変えていこう」と思うことができた。この期間は無駄じゃなかったと思っていますし、高校にエレベーターがなかったことも、階段移動で苦労したことも、歩けるようになろうと自分の足を使って、お金を使って色んな情報を調べて手術して、つらいリハビリ生活を送って、その全てが続いての今と思うので、本当に良かったなと思う。

起業を考えた最初は「自分が車椅子で生活しやすくなればいいや」というエゴでした。でも、「父親が車椅子になっても移動できるな」「自分の子どもの足が不自由になって車椅子で生活しなきゃいけない状況になっても移動できる」「入院している患者さも移動は不自由なので、あの人も外に行けるようになるんじゃないかな。あ!富松さんも」とか考えて。最初は本当に自分ごとだったのが、「誰かのためにもなるな」って気付くようになりました。色んな不自由や障害を抱えている方々が集まっている病院で、そうした人達のためにも何かできるんじゃないかなと思えた。しかし、当時は何となくです。起業のアイデアもなくて、「お金があればなんでもできる」と思っていたんで。

その時点で大きなことをするため、専門的な勉強をすること、早いうちに社会人経験を得る、同じ思いで爆発していそうな仲間を作ることの3つを目標に掲げました。まず、大学に行くにはどうしたらいいかなと。高校に戻る選択肢はなかったので、調べたら「高卒認定」(=現在の大検)がありました。病院を出たのが2~3月頃で、親に90万円の借金をして埼玉県の自動車学校に行って合宿で免許を取ったんです。名古屋の予備校まで電車で行けるようにするには、自宅から中津川の駅まで行くための運転免許が要ると。車椅子の人間の使う車は特殊なので、免許を取れる場所って限られているんですね。予備校に通い始めた夏の時点では高卒認定に受かっていたので、残り半年で大学受験の準備。科目は生物、英語、数学、国語。進学先は大学入試センター試験で行ける大学に絞りました。最初は車椅子や義手、義足を作る、義肢装具士になりたいと思っていました。私は昔からモノづくりが好きで、中学校ぐらいまで車椅子に関する発明品を作っていました。最後に作ったのは車椅子で砂利道や雪道を移動しやすくなる用具で、全国大会で入賞しました。しかし、義肢装具士の話を聞くと「儲かんないよ~」などと明るい話を聞かなかった。また、自分が最初に志望していた福祉系専門大学が模試で簡単に合格圏内の評価を取れたので、「こんなに簡単じゃ張り合いがない」なんて思ったりもしていました。就職者数や経営者になった卒業者の数などで大学をランキングする雑誌を読んで、志望校に対する低い評価にも衝撃を受けました。そこで、「経営者をやるには、いい大学行かなきゃいけないんじゃないか」って思って。そんなデータは参考に全然ならないですし、大学に行っても必ず起業できることもないんですけど、そういった情報に洗脳されて(笑)。

    • 元東京財団研究員
    • 三原 岳
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