社会の病にも医者はいる
感染症対応が急務の時、歴史家ほどうとましいものはない。役に立つかどうかわからない過去の話を、教訓調で語りたがる。さりとて今どうすれば良いか、わからないことが多い。新型コロナウィルス(SARS-CoV-2)のゲノム配列は既に解読されているが、ウィルス変異とワクチン改良のどちらが勝るのか、ワクチンが勝つまで人々はどう振る舞うか、それが何をもたらすか等、定見はなく、しかたなく歴史家の話を聞いている。
これも迂遠なことだろうが、内海孝氏による『感染症の近代史』(山川出版社、2016年)というコンパクトな通史があり、それを読んでいると面白い指摘があった。日本のお札には感染症への備えがある。
千円札に載る野口英世は、北里伝染病研究所や横浜海港検疫所で働き、黄熱病との戦いで命を落とした。
五千円札の樋口一葉は、やはり感染症の肺結核で早逝した。死の直前、その才能を買っていた森鴎外の斡旋で、青山胤通(あおやまたねみち)が往診している。帝国大学医科大学の教授であり、明治天皇の侍医や大隈重信の主治医を務めた人物である。文学史と医療史の接点に、一葉はいる。
一万円札の福沢諭吉(1835~1901年)は残念ながら医者ではなく、しかもきわめて頑健であった。だが幕末には西洋医学を中核とする蘭学を学んでいた。大阪にて蘭方医の緒方洪庵が主宰していた、適塾においてである。近くの中之島には漢方医の書生が多く、両者は遭うとにらみ合っていたらしい。
たしかに今のお札のラインナップは、新型コロナの来襲に備えていたかのようである。
福沢は医者にならなかったが、適塾の後輩には長与専斎(ながよせんさい)(1838~1902年)がいた。医者になったばかりか、明治政府に仕えて衛生行政の草分けとなった。
長与が還暦を迎えると、祝賀会が1898年3月28日に東京・芝の紅葉館で開かれた。福沢はその2日前に脳溢血に倒れており、出席できる状況ではなかった。だが祝辞を寄せ、長与の多年の働きをねぎらった。
明治の福沢は在野の学者として生きた。これに対しては、長与は在官の学者であったといえる。祝辞の中で在野の学者は、在官の学者に人知れぬ苦労と功績があることを認めた。
政府高官に医学の知識がない中、その理解を得て長与が医療を発展させた努力を福沢は称える。さらに長与は「何事を発起し何会を設立し、其首座会長は何某にして列席は誰々など」全てを周旋し、医学界を改良した。それはまるで、「豚に騎して山に登る」ような大変さであったろうと気遣う。
長与は一人の患者を治す医者ではなく、日本中の医者たちを治す医者であった。対して自分は医者ではなく、昔、医学を学んだために長与を知りえた者に過ぎない、と福沢の祝辞は締めくくられている(「奉祝長与専斎先生還暦」『時事新報』1898年9月29日。本稿で引く『時事新報』の記事は全て慶應義塾編『福澤諭吉全集』[岩波書店]を参照している。今日不適切な表現もそのまま引用している)。
私は、福沢も医者だったと思う。一人の患者を治す医者ではなく、社会のコミュニケーションを治そうとする医者である。本人も自覚的であり、政治や社会を論ずる時に医療のメタファーをよく使った。外交を論ずるにあたって、「医師が人の病を療治するも、経世家が社会の病を療治するも、其趣旨は正しく同一様にして」と前置きしたこともある(「国交際の療法」『時事新報』1893年6月6日)。政策判断には〝誤診″もあったであろうが、ここでは感染症をめぐる福沢のコミュニケーションの巧拙を検証したい。
コレラよりも恐ろしい病、コミュニケーション不全
内海『感染症の近代史』は、伝染病予防法(明治30年法律第36号)が指定した10種の急性伝染病の、最も死者が多かった年の患者数と死亡率をまとめてくれている。この方が、社会に与えた衝撃の大きさを実感できる。スペイン風邪が猛威をふるった一年間をここに加えると、下の図のようになる。
新型コロナとよく比べられるスペイン風邪は、1918年8月〜1919年7月の1年間で患者数は2,116万8,398人、死亡率は1.2%だった。患者数はスペイン風邪が抜きんでているが、罹ると死ぬ、という恐怖感を与えたのはコレラであろう。しかもコレラはかかると公権力によって避病院に隔離され、家族が死に目に会えないことがあった。新型コロナが高齢者に与える恐怖には、コレラの方が似ているかもしれない。
私は以前、コレラをめぐる明治政府の対応から、新型コロナへの対応について何が言えるかについて、私は東京財団政策研究所のシンポジウム「歴史から考えるコロナ危機」で議論したことがある。本稿では、福沢が感染症についてどのようなコミュニケーションを試みたか、例解する。
福沢は、自らが創始した新聞、『時事新報』の社説欄によく漫言を載せた。多分に毒舌を含んだ冗談を通じて、何かを諫めようとする。「異物同称のコレラ病」(1882年8月1日)もその一つである。
漫言は言う。コレラは恐ろしいが、夏に流行るので、涼しくなればおさまる。だが季節性ではない、もっとやっかいな病に、「是等(これら)病」がある。ここでいう「是等」は〝我ら‴のことであり、自分たち内輪の基準や気分や事情がまかり通ると思い込む病である。
品のない連中が、ちょっとした言の葉をとらえて大げんかする。「何か言葉の間違より一方の気に入らぬ事あるときは、忽ち掴み合の乱暴を始む」。止めようとすると、「是等は我々社会の状態なり」と開き直る。窃盗や不倫や放蕩や吝嗇も、「是等」の定めだと無反省である。「是等」の情実で無謀に会社や銀行をつくったり、いかがわしい取引をしたりする。
先に触れたシンポジウムで私は「過去も現在も、対人接触がもたらす最大の災厄は政治です。感染の最悪の日々の中でも、われわれはそのことを忘れてはいけない」と述べたが、コレラならぬ「是等」を意識してのことだった。
福沢は、コミュニケーションの不全が、コレラそのものより恐ろしいと知っていた。福沢が論説を執筆し、あるいは新聞を経営するにあたっては、コミュニケーションの拡大が文明開化の原動力でありながら、一歩間違えると人々の対立を制御不能なまでに激化させることが強く念頭にあった(有山輝雄「福澤諭吉と「人民交通」」『「中立」新聞の形成』[世界思想社、2008年])。
囲い込まれた空間は、こじらせると「是等」になる
まじめにコレラの予防法を説くこともあった。1885年9月5日の社説「コレラの用心」で福沢は、これを読むだけでなく、周りに読み聞かせてほしいと読者に求めている。予防法の知識を欠く者は、新聞の読者よりも、その家族や出入りの業者に多いと推測していたためである。
”尤新聞読むくらゐの人なればコレラの予防法などは疾(と)く心得居らるる事ならんと思へども、家の中に無識なる人もあらん、又日々家に出入する下人等も多からんなれば、少々の面倒を憚らずして此新聞紙を読聞かせ、又は少しく字を知りて平仮名の読める者ならば之を自分に読ませるやう、記者の願ふ所なり。”
現在、SNSが同じような思想や嗜好を持つ利用者の間のコミュニケーションばかり促進してしまうことが、問題視されている。このように閉じた集団ができることを「部族化」と呼ぶこともある。明治時代にもやや似た問題はあり、新聞は今よりも党派的で、部数は少なかった。囲い込まれた情報空間は、こじらせると「部族」よりも怖い「是等」になる。これを突破する回路を、福沢は一家団らんや世間話に見出そうとした。私たちにはどのような回路があるだろうか。
ここで山﨑正和のことを思い出す。山﨑は多方面にわたる評論を通じて、「社交」という営みの可能性を模索し続けた(『社交する人間』[中央公論新社、2003年])。
人間関係の一方の極に家族、他方の極に利害打算に基づく取引を置くなら、その中間に広がるのが社交である。人は社交がもたらす節度を保った親密さの中で、相互承認の充足を得ることができる。
新型コロナ・ウィルスのために、社交は広範なダメージを蒙った。その禍中に、社交の擁護者ともいえる山﨑が亡くなった(2020年8月19日)。コロナが死因ではないが、山﨑の逝去はコロナ禍を象徴する事件の一つだと思う。
相互承認や信用は、お互いの目と目を見つめ合うことで実現するものだという感覚は我々の中で根強い。ビデオをオフにして耳だけ貸すのが常態化しつつあるオンライン通話で、社交をどこまで修復できるかが問われているのかもしれない。
いよいよ福沢の解説を読んでみよう。コレラは「バプ(ク)テリヤ」であり、顕微鏡でなら見分けることができる。人体に入るとたちまち増殖する。まるで蒸飯に入れた麹が、一晩で花を咲かせるようなものである。
ここで福沢が、顕微鏡の講釈は無益だと述べたのに私は感服した。説明が長すぎると聴き手に逃げられるという注意ではないだろうか。急ぎのメールの送信ボタンを尋ねただけなのに、サーバやPOPについて解説されて閉口した記憶が私にはある。だから深読みしてしまっているのかもしれない。
所得と感染の関係についての醒めた認識がある。低所得層の感染者が多い。わずかな金銭を得ては生活必需品を買いに出なければならないので、接触の頻度が高いからではないか、と論じている。
病人や病人が触れた物との接触を戒め、衛生と消毒を勧める。
最後の一節は、全文を順に紹介しよう。
”コレラの用心は大抵右の通りにて、別に妙法あるべからず。唯この上は身体を運動して何時も気分を快くし、且悪病流行の時なりとて余りこれを心に構へずして、歌ふも舞ふも飲むも食ふも平生の如くにして平気なるべし。”
必要な予防を講じた上では、なるべく普段通りに歌って踊って飲み食いして過ごすことが大切だと説いている。福沢先生、私たちカラオケも飲食も普段通りできていないのですが、と怨みたくなるが、気を病み過ぎると長持ちしないという注意はわかる。ここで福沢先生は急に漫言のようなことを言い始める。
”謂れもなきことにビクビク恐るるときは、所謂臆病神なる者に取付かれ、其臆病神がコレラの案内して襲ひ来ること甚だ多し。”
むやみに心配していると臆病神にとりつかれ、臆病神の手引きでコレラが襲いかかることが多いという。
顕微鏡でも臆病神を発見することはできないと、福沢は知っていたであろう。とはいえここでは個人の気の持ちようを説いている。気を休めるのに役立つなら、怪力乱神を語ってもよいのだ。
だが具体的な対処においては、怪力乱神の暴走は許さない。臆病神の比喩は口にしても、疫病神の実在は許さない。まさに舌の根も乾かぬうちに軌道修正して、科学に勝るものはないと断言する。
学問の道理に従って用心し、疑問は西洋医に尋ね、指示に従え。無智な民衆ほどあわれなものはなく、驚きあわててあやしい薬やお守りに頼り、正当な予防を怠って感染し、自宅の門に感染者であることを表す黄紙(きいろがみ)を貼られる。本人は自業自得だとしても、そこからコレラが広がる。その家から葬式を出すときにはお隣にも感染が広がり、瞬時に一村全滅となりかねない。自他を大切に思うならば医者の言うことを聞くべきだ。
”世の中は万事万端学問の道理に勝つものなし。此道理に従ふて用心し、不審あれば西洋流の医師に聞いて其差図の如くすべし。憐れなるは無智無学の小民大民、其れに驚き是れに迷ひ、何家の家伝一流とて丸薬を貰ひ、何屋の売薬奇妙なりとて其能書を真に受込み、甚しきは病難除けのお守を門戸に張付て安心するものなきにあらず。本人の不幸は自業自得なれども、コレラの禍は死者一人に止まらず、黄紙の葬式、お守の門を出ると同時に、隣家にも亦新患者を訴へ、遂に一時一村を皆殺しにするに至るべし。我身の命を愛しみ他人の禍を気の毒に思ふならば、謹で学医の言を聴くべきものなり。”
科学的な知見に基づきつつ情理を尽くして
感染症をめぐるコミュニケーションは難しい。
気を休めるためには、想像力に訴える工夫も必要なことがある。だが非科学的な気休めに頼るようになってはいけない。気の合わない相手に対しても、科学的な知見に基づきつつ情理を尽くした、複合的な反論や説明を試みなければならないのが、恐らく常態であろう。
福沢の強みは、この多様な説得の言説を、文脈にあわせて変幻自在に駆使した点にある。
さまざまなものごとに関する、価値判断を含んだ意見の体系を思想と呼ぶならば、思想は大量の言説を生み出すエネルギーとアイディアの源泉である。同時に思想には、自らの価値基準によって言説の良し悪しを定め、えり好みして、多様性を損なう作用もある。
私は福沢には思想があったと思う。だが多様性をなるべく損なわない思想であった。いかにそれが可能であったかは、福沢研究の核心的なテーマである。
また迂遠なことを、と言われるかもしれないが、少なくとも、人間はそのような思想を持ちうるのだ、と知っておくことは悪くない。気休めはだめでも、気を休めることは良いらしいから。