医療発展への貢献
感染症をめぐるコミュニケーションの大切さと難しさを、福沢諭吉を題材に考えてきた。だがもちろん、コミュニケーションだけでは問題は解決しない。福沢は、医療そのものの発展にも貢献した。
北里柴三郎(1853~1931年)は1883年に東京大学医学部を卒業後、内務省衛生局に入り、東京試験所で研究調査に従事した。上司だった長与専斎の推薦でドイツに留学し、ロベルト・コッホの知遇を得た。世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功し、さらに毒素を中和する抗体を発見することで血清療法の発明に貢献し、第一回ノーベル賞候補にまでなったことはよく知られている。
1892年5月に帰国した北里は、伝染病の研究機関をつくろうとしたが、実現は難航した。福沢は長与の紹介で北里と会い、全面的に支援するようになった。
12月に芝区御成門脇に私立伝染病研究所が発足したが、土地・建物は福沢が提供した。研究器機は実業家の森村市左衛門が寄付したが、これも福沢の要請を受けてのことだった。
6室からなる私立伝染病研究所はすぐ手狭になり、翌年には芝区愛宕町への移転を計画する。
伝染病研究所立地反対運動に直面して
だがここでもコミュニケーションの不全が発生した。
芝区の住民から、肺結核が蔓延するのではないか、と反対運動が起ったのである。
福沢は北里擁護の論陣を張った。ただし、できれば公開の議論は避けたいと思っていた形跡がある。
当初、福澤は有力者間の折衝・協力での解決を模索していたようである(慶應義塾編『福澤諭吉書簡集』第7巻[岩波書店、2002年]1757頁)。だが東京大学には別の伝染病研究所を開設する構想があり、文部省がこれを支持していたこともあり、この路線は行き詰まる。長与の動きも鈍く、北里支援者からは不満の声が上がっていた(志村俊郎・都倉武之「長谷川泰と慶応義塾:福沢諭吉との接点を中心に」『日本医史学雑誌』第59巻第4号、2013年)。
では住民感情をなだめるべきだろうか。たしかに福沢は、研究所の名称から「伝染病」を除けば抵抗が弱まるのではないか、と考えたこともあるようである(『福澤諭吉書簡集』第7巻1758〜1759頁)。
結局は社説で公に伝染病研究所を擁護することにしたが、歯切れがよいとはいえなかった(「伝染病研究所に就て」『時事新報』1893年7月5〜7日)。
反対運動の「無智無識」を容赦なく指摘しながらも、心配するのは人情としてわかる、だが学問の活用は拡大すべきだ、と論旨は蛇行する。
区の主だった有志は研究所の必要性を理解しており、あくまで反対するのは少数派であると主張する。だが少数派でも無視はできず、さりとて少数派の言い分を認めると、およそ感染症の研究や予防に反対すれば通るという、悪しき先例になりかねない、とまたしても蛇行する。
そもそも今の研究所は手狭で、破傷風の抗体を作るために必要な馬や、ジフテリアのために必要な山羊の飼育もできない。反対の強い附属病院だけでも移転して設備の拡充を進めるのが先決ではないか。このような妥協案を、福沢は提示した。
警告と恩恵の両面作戦
他方で北里は思い切った行動に出た。1893年7月16日に所長辞任と研究委託の返上を申し出たのである。翌日には大日本私立衛生会の副会頭であった長与宛てに、自らの真意を説明した陳情書を送った。時事新報の社説欄に全文が掲載されている(「伝染病研究所の始末」1893年8月11〜12日)。
北里は言う。研究が進み、新しい知見が出れば、人が驚くのは当然であり、反対が起こるのは無理もない。まして自分のような浅学菲才の手に余る事態である。
ここまではしおらしい。
だがここから北里は、自身にとっての不都合を訴え始める。これでは研究が進まない。学術を極めるためには、緻密に思考しなければならない。その奥義は、言葉では説明できない域にある。終日、試行錯誤しなければならず、一片の落ち葉が窓に当たるのでさえ集中の妨げだと述べる。
”元来学術に思想の緻密を要するは固より論を俟たざる其中に就ても、我黴菌(ばいきん)学の業たる、至細至極にして、其窮理の微妙に至りては、筆以て記す可からず、口以て言ふ可らず、(中略)此れを思ひ、其れを試み、思案して得ず、試験して中らず、時としては終日食はず終夜眠らずして唯心を一方に擬すのみ。此時に当りては一片の落葉、窓を打つの響も心緒を紊ることあり。”
だから俗事を避けなければならないのだが、研究所立地問題への対応は俗事そのものである。会議への出席はもちろんのこと、区内有志や会員・知人への説明から人・文書の出入りまで、煩雑に絶えない。
合間に研究するしかないのだが、それすら難しい、と北里は主張する。一度、俗事にかかわると、思考を学問の方に切り替えるのは容易ではない。酒を飲むのは一瞬でも、酔いはしばらく続く。自分の近況は、毎日「俗談」に酔いつぶされているようなものである。
”既に俗事に心身を用ふるときは、其之を用るの時は長からざるも、其時間に精神を俗了して復た学事に適すること容易ならず。之を喩へば酒を飲む者が、之を飲むに費す時間は暫時なるも、其酔は数時間に持続して醒めざるが如し。柴三郎の如きは近来毎日俗談に酔倒するものと云ふ可し。”
したがって、私立伝染病研究所から解放してほしい。細々とでも、自分の研究を続けていくつもりである、と陳情書は結論している。
社説の後半では、福沢が解説を加え、北里の無念を思いやっている。
そして問いかける。芝区の有志は、反対運動の悪化に責任はないのだろうか、感情的な住民の説得に十分努めたのだろうか。政府は補助金まで出したのだから、円滑に発展するよう十分注意するべきであったが、そうしたのだろうか。遠からず国会で論議になるだろうから注目したい。このように述べて、社説を締めくくっている。
一学者として北里の陳情書を読むと、よくぞ言ってくれた、とひざを叩きたくなる。他事のために研究が進まないいらだちは、誰もが経験している。研究に戻るための頭の切り替えが、不得手な人もいる。そして切り替えができるようになっても、本当に緻密な思考にまでは戻れていないのではないか、という疑念を禁じえない。
世事にかかわる学者の悩みを尽しているといえよう。『福沢諭吉全集』第14巻の注釈(113頁)によれば、この陳情書は人々に感銘を与え、この頃から反対論も沈静化したという。
ただ、純粋な感銘だったのか、私には疑問がある。北里のような国際的名望のある科学者が、手を引くと述べているのだから、威嚇の効果もあろう。反対運動の先鋭的な住民には効果がなくとも、区内の有志や政府・衛生会の歴々は、鼎の軽重が問われるであろう。
北里の陳情書を起草し、提出をうながしたのも、実は福沢であった(『福澤諭吉書簡集』第7巻1781頁)。
福沢の妥協案の方も実現した。むしろ福沢自身が実現を準備した。9月、結核専門病院として芝区広尾に土筆ヶ岡(つくしがおか)養生園が開設された。敷地を購入し、貸し付けたのはまたしても福沢であった。
養生園の治療は好評であった。さらに福沢が土地を購入し、貸し付けることで血清所が1896年7月2日に開設され、ツベルクリン療法が軌道に乗った。この年から養生園の経営は安定する。伝染病研究所にはじまるこれら一連の施設が、今日の国立感染症研究所の前身である。
有力者への警告と、先進治療の開放との両面作戦によって、反対運動を乗り切ったといえよう。
受益も貢献も人一倍な福沢
実は北里の周辺には、病院拡大へのためらいがあった。治療に従事することで、北里の研究時間が減ったことは間違いない(福田眞人『北里柴三郎』[ミネルヴァ書房、2008年]149~150頁)。
もちろん福沢もこの問題は意識していた。北里の事務負担を軽減するために、門下の田端重晟(しげあき)(1864~1945年)を養生園に勤務させる。北里と福沢の間を往復しながら、田端は養生園の発展に手腕を振るう。福沢は養生園を支援しただけでなく、田端を通じて経営上の強い発言権を確保したといえよう。
福沢は、自らの家計が思わしくない時期に、以上のような支援を行った。そこに学問発展への使命感を見出さないわけにはいかない。同時に、養生園の好調が、福沢家の重要な固定収入となった事実も否めない。在世中の福沢は、養生園が拡大を決める度に、土地を購入し、貸し付けて賃料を取ることを繰り返したからである。福沢は広尾に自らの別荘も建てた。そこで懇親会等を催す際には、田端ら養生園の関係者が動員された(正田庄次郎「田端重晟日記からみた福沢と北里」『福沢諭吉年鑑』第8巻、1981年)。
支援者としても共同経営者としても受益者としても、福沢は能動的であったといえよう。
1896年10月、養生園から福沢家に届けられたミルクが粗悪であったらしい。田端に宛てて、福沢は猛烈な抗議を書き送った。
日頃、消毒を奨励し、細菌学を標ぼうしているだけに、これは信用を失墜させる手落ちである。現実に無害だとしても「人のフヒーリングを如何せん」という調子である。飲み口に毛のようなものがついたミルク瓶は、養生園の「事業腐敗の記念」として、かつ将来までの「小言の種」として、ミルクが入ったまま保存する、という追伸までついている。
田端はもちろん、北里も翌日には謝罪に赴いたが、3時間にわたって叱責されたという(正田前掲。森孝之「北里柴三郎を支えた福沢諭吉」『近代日本研究』第34巻、2018年)。
ミルクのことだけで3時間も怒れるだろうか。田端がのこした詳細な日記によれば、福沢は他のことでも怒っていた。長与が養生園から受け取っていた、月100円の手当を打ち切るべきだと弁じたてたのである(正田前掲)。
政府の施策の中に西洋医学を定着させるために、長与が低姿勢のコミュニケーションを余儀なくされたことは、福沢も理解していたであろう。だがその負い目を埋め合わせようともせず、受動的な受益者の立場に安住していると疑ったのかもしれない。
ミルク事件の1年半後、前編で触れたように、長与の還暦祝賀会が1898年3月28日に催された。福沢はその前々日に脳溢血に倒れたが、田端日記によれば、倒れる前から欠席を決めていたらしい(正田前掲)。
福沢ならどんな言葉を繰り出すか
福沢の時代と比べると、現在はコミュニケーションの方便が減っているような気がする。北里を応援した福沢の言動は、一歩間違えるとやらせ(北里の陳情書の起草)、脅迫(陳情書の論理)、お手盛り(敷地貸し付け)、パワハラ(宴席への動員やミルク事件)を疑われかねないだろう。
それでもコミュニケーションを円滑にするためには、自他の利害を調整し、調和させるための現実の努力が、より大きく必要となろう。
福沢は西洋医学に基づく感染症予防は「我身の命を愛しみ他人の禍を気の毒に思ふならば」必須であると訴えた(「コレラの用心」『時事新報』1885年9月5日)。不便で苦痛ではあっても、結局はお互いの利益になるということである。しかし当時の衛生行政が強権的であったこともあり、理解を得るのは簡単ではなかった。福沢は、人々の非協力を批判し続けなければならなかった。
現在の新型コロナへの対応は、より大きな協力を社会から得ている。だがお互いの利益だという言い分は、本当の納得を得ているのだろうか。年金をもらいつつ自宅に避難する高齢者は感染のリスクが高い。遊びに出たい、働きに出なければならない若年層・現役世代は感染のリスクが低い。感染防止への賛否が世代間対立になりかねないウィルスに我々は直面している。それなのに、全員を守るためという、福沢の時代から進歩していないレトリックに頼っていないだろうか。
福沢が今いれば、もっと大胆だと思う。漫言でも書いて、若い世代のモノローグをくまなく再現しようとするであろう。夜の街に繰り出そうとする若者を戯画化しつつ、シニア世代にも矛先を向け、ひょっとしたら長与を想起させる高齢者を登場させ、やがてまじめな社説で対策を提言するのではないか。
休業補償などの給付に加えて、ひょっとしたら新型コロナ対策特別会計の構想に関心を持つかもしれない。森信茂樹らが本年1月に東京財団政策研究所のウェブサイトで発表した「緊急提言:そろそろポスト・コロナの財政、税制、社会保障の議論を」は、コロナ対策の歳出を特別会計化することを提案している。臨時の救済措置が一般会計にまぎれて恒久化することを防ぎ、かつ特別会計の財源を明確化することで、将来世代への負担の先送りを回避する狙いからである。
この提言は社会保障制度改革にも触れている。その是非を判断する専門的知識は私にはないが、高齢者の取り分を減らして、将来世代の負担を減らすのであるから、高齢者の理解と協力が不可欠ではあろう。
若年層・現役世代には感染予防への協力を求めつつ、シニア世代には財政破綻への予防の協力を求めるようなコミュニケーションが必要なのではないか(拙稿「能吏型政治家・菅首相の限界と活かし方~安倍よりも岸元首相に似ている菅」『論座』 2021年3月3日)。福沢ならどんな言葉を繰り出すか。それを想像することは、迂遠でも気休めでもないのかもしれない。
◆前編はこちら→福沢諭吉の感染症コミュニケーション<前編>多様性を含んだ思想のエネルギー
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