※本稿は2015年7月6日に開催した 第95回 東京財団フォーラム の内容を東京財団が編集・構成したものです。
政府との和解と社会との和解と
細谷 先ほど私が挙げた2つめの質問、「日本の戦後70年の歩みをどう理解したらよいのか。何をやって、何をやってこなかったのか」。まず、戦後70年の日中関係についてはいかがでしょうか。
川島 今年9月3日、反ファシズム戦争勝利・抗日戦勝利の記念日にあわせ、北京で軍事パレードがあることが知らされています。なぜ9月3日なのでしょうか。日本が戦艦ミズーリの艦上で連合国向けの降伏文書にサインをしたのが9月2日で、その翌日に国民党政権が重慶で抗戦勝利パレードを行ったことに由来します。国民党を本土から追放した共産党政権は、当初8月15日に記念日を設定しましたが、やがてソ連に合わせて9月3日にこの日を対日戦勝記念日と定め、さらに昨年の全国人民代表大会(全人代)において、9月3日を「抗日戦争勝利記念日」、12月13日を南京事件の「国家哀悼日」にするという議案を採択しました。
第二次世界大戦後、ここに至るまでの歴史を振り返ってみます。
1945年の終戦時、大陸には日本陸軍が100万人以上いました。まず中国側はそれを武装解除して粛々と日本に返していくわけですが、国民党、共産党ともに、日本軍を敵に回さないようにしていた面もあります。
1949年10月1日に中華人民共和国が成立し、中華民国が台湾に遷ると、世界に2つの中国政府が成立することになりました。日本がどちらと講和し、正式な関係を結ぶのかが問題になったのです。台北からすると、日本からの承認がどうしてもほしい。北京からすると、たとえ日本が西側陣営に入って台北を承認しようとも、なんとか北京との関係を外交関係へと発展させていってほしい。こうした中で、東アジアが冷戦に組み込まれていく過程において、中華民国政府が日本に「中国政府」として選択されることになったわけです。
蒋 介石は1945年の終戦当時から、「軍民二元論」を提唱していました。これは戦争責任を一部の軍国主義者に帰して、民間人の多くや一般兵士は被害者だとするもので、毛沢東もこうした考え方をもっていました。
ただ、蒋介石は対日賠償請求の準備はしていて、515億ドル以上の請求額をはじき出してはいました。しかしアメリカの対日占領政策の転換によって、連合国は基本的に対日賠償放棄を決定し、サンフランシスコ講和条約でも多くの国が賠償を放棄し、1952年4月28日の日華平和条約でも中華民国は対日賠償を放棄しました。
以後、日本と中華民国の間では、「以徳報怨」という言葉が重視されるようになります。これは徳をもって怨みに報いるという言葉で、日本人はこれを用いて蒋介石の寛大政策に対する謝意を示すようになったのです。蒋介石は75年に死去しますが、それまでは、日本の政治家は蒋介石に会えば、その言葉をいう。蒋介石も戦争の話はしない。以徳報怨というロジックは、少なくとも日本の政治家と国民党の間では、一定程度機能していきました。
一方共産党、北京の側は、日本がアメリカと結びつき台北を承認することを嫌って、軍民二元論をとりました。それは、日本の民間人を中国に引きつけ、北京政府を承認するような運動を起こしてほしい、あるいは、先ほどの渡部さんの話にも通じますが、アメリカへの対抗上、日本国内の反米運動や革新派の動きと結びつきたいと考えていたと考えられます。北京は、日中友好人士や革新派と結びつき、反米運動を支持しました。日本の中立化をめざすことは、当時は対日工作として中国では位置づけられていた。この日中友好運動においては、歴史認識問題は必ずしも前面に出ずに、より戦略性の高い日中関係や米日中関係の中に落とされていったわけです。
ただ、日本に対しては軍民二元論をいいながらも、中国国内、あるいは台湾内部においては共産党も国民党も相当強い反日教育をしていました。戦争に勝ったこと、あるいは日本を倒したことを自らの正当性の拠りどころにして国内で教育をしながらも、日本に対しては、互いに国民党、共産党を見ながら、自分のほうに寄ってほしい、と日本にメッセージを送っていたのが1950~60年代ということになるでしょう。この時期、蒋介石と日本の間には「以徳報怨」があり、日中関係においては「日中友好(運動)」がありました。これらは歴史をめぐる問題を抑制するための象徴的な言葉で、日本と国民党、日本と共産党との間で一定程度シェアされたことに留意すべきです。昨今そうした言葉が日中間にあるかというと、なかなか難しいものがあります。
残念なことは、1950~60年代に多くの日本の戦後知識人が戦争を悔い、戦争責任論を論じていたわけですが、当時、国交のなかった中国はもとより、国交のあった台湾でさえも、知識人たちとの交流は十分ではなく、東アジアの人々も交えた和解が進展したわけではなかったことです。
また、1952年の日華講和条約締結、72年の日中国交正常化の際、相手は民主化していなかったことも指摘する必要があります。つまり、日本と周辺国の対日講和の政策決定プロセスの中に、相手の国の人々、社会は加わっていないのです。これがドイツと違う点です。ですので、日本の周辺の国々が民主化していくと、社会の側から国内的にも対外的にももう一回戦後処理が提起されます。日本はそれに向き合わねばなりません。日本がいくら「法的、外交的に解決済み」といっても、相手は聞いてくれません。これが、80年代以降、韓国、台湾が民主化し、中国社会で人々の力が強まる中で、日本が直面しなければならなかった問題なのです。
1972年に国交正常化し、日本は79年から対中政府開発援助(ODA)を始めます。改革開放を進める?小平副首相は「日本は経済の師である。しかし歴史を忘れてはいけない」といって、歴史と経済の両輪をつくり上げた。つまり経済では日本に学ぶが、日本との歴史は忘れないということです。ただ、80年代は日本の経済、ODAの意味合いが強かったので、経済面で日本が少しでも譲歩をすれば歴史問題は解消できた面があります。
ところが1990年代に入って、日本の経済力が、中国に対して弱くなっていきました。そしてODAが縮小し、日本がもっている対中経済カードが小さくなり、歴史認識問題でそれを切れなくなっていきます。2000年に入ると、さらにカードは切れません。加えて、日中友好や以徳報怨といったカードも、日中友好運動の後退などの社会の変化その他によって、すでに使えなくなっています。そうなると、経済と歴史の両輪のうちの歴史の部分がふくらんでしまいます。歴史問題が前面に表れて、日中間では歴史問題や領土問題がすべてになってしまうことになります。
さらに追い打ちをかけたのは、司法の場です。もともと司法の場では、日中国交正常化によって国家賠償は放棄されたが、民間賠償は放棄されていない、という解釈がなされていました。ですので、民間の原告に勝訴の可能性があったのです。ところが今世紀に入って東京高等裁判所で、最高裁判所でも、民間賠償も放棄されている、という判決が下ったのです。これはたいへんなことです。司法が処理をしなくなった結果何が起きたかというと、日本では歴史認識問題が政治と社会に引き取られていって、2006年から日中歴史共同研究が始まり、いろいろな場での対話が行われるようになりました。また、日本の司法では処理されなくなったこともあってか、中国内部で裁判が起こされるようになりました。
このように、日中間の歴史をめぐる問題、和解の問題は、対日工作、経済関係など、その時々のさまざまな状況と絡みついて日中関係全体の中に位置づけられてきました。他方で、対話と交流の成果として、実際に和解の進展も見られてきています。問題拡大を防ぐ方式も一定程度機能してきたし、和解に向けての交流や対話、共同研究などの試みもなされてきた。しかし、あったはずの問題の拡大を抑える装置がだんだん失われていって、今のように問題がエスカレートするようになってきています。2007年4月12日の温家宝総理の国会演説は日中間の政府レベルでの和解のひとつの到達点を示すものでしたが、その後中国側も外交方針を大きく転換しているように見えます。今、知恵を出し合わなければならない状態にあります。
細谷 普段われわれが気づかない視点を提供していただきました。戦後70年の日韓関係についてはいかがでしょう。
西野 あえて単純化していえば、基本的には大きく発展してきた歴史であるといえます。
1945年から65年までの20年間、日韓間では国交が開かれていませんでした。サンフランシスコ講和と時を同じくして日韓交渉が始まったわけですが、14年間の長きにわたって、歴史認識の問題で溝が埋まらず、65年には先ほど申し上げたように玉虫色で決着をつけたわけです。日韓関係を研究する者の間では共通の認識ですが、基本的には「経済の論理」と「冷戦の論理」、別言すれば「安全保障の論理」が優先され、歴史問題は後回しにされたのです。
当時の日本からすれば、韓国の政治経済的な安定と発展が、日本の安全保障にとっては必要でした。韓国からすれば、経済の発展が切実な問題でした。つまり両国の利害が一致したため、国交正常化が実現したのです。その目的が十分に達成されたことは、今日の韓国の発展ぶりを見れば明らかでしょう。しかも、1980年代末には民主化をも実現して、ダイナミック・コリア、あるいは「過剰民主主義」とまでいわれるような社会に成長したわけです。このような状況の中で、川島先生がおっしゃったような問題、民主化に成功したがゆえの問題が日韓関係にも突きつけられています。
さきほど私は、「歴史問題は後回しにされた」といいましたが、冷戦終結後1990年代に入り、日本はこの問題に対して真摯に取り組んできたと思います。93年の河野談話、95年の村山談話、アジア女性基金設立、そしてそれらの取り組みのひとつの到達点が98年の日韓共同宣言です。
2000年代に入ると、再び歴史問題が大きくクローズアップされるようになります。韓国側からすると、その引き金を引いたのは、2001年以降毎年恒例になった当時の小泉純一郎総理の靖国神社参拝でしょう。
しかしながら日本は2010年、日韓併合条約100年の節目に菅直人総理大臣談話を出しています。もったいないことに、日本国内ではあまり評価されていないのですが、当時の民主党政権の重要な取り組みのひとつです。植民地支配に対して踏み込んだかたちで日本の意思を表明しました。
私は以上のように日韓関係の70年をとらえています。日本ではこのような見方に賛同してくださる人は多いと思いますが、韓国ではそうではない見方が主流になりつつあります。
1990年代になって韓国の民主化が進み、98年には金大中(キム・デジュン)政権が誕生し、2003年には盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権が誕生します。それまでは保守政権でしたが、進歩政権が2期10年にわたって続くことになります。韓国社会では、それまでは保守的な考え、反共イデオロギーしか許容されなかったのが、民主化したことによって進歩的な考えが徐々に許容されるようになってきた。今では、進歩的な考えと保守的な考えは、韓国の社会では半々を占めているといえるほどになっています。
例えば、2012年大統領選挙の得票率を見ると、保守の朴槿恵氏が51パーセント、進歩の文在寅(ムン・ジェイン)氏が48パーセントとほぼ半々です。かつて進歩勢力は声を出すことすら許されない状況だったのですが、以前に比べると今はのびのびと声を上げることができます。この進歩勢力の中心は、かつての民主化勢力の人たちです。民主化勢力の基本的な考え方は、“1965年当時の朴正煕政権による国交正常化は必ずしも正しくはなかった。当時は国力が小さかったため、仕方がなかった。しかし韓国は成長した。今の国力、国際的地位に見合うかたちで日韓関係をもう一度つくるべきではないか”というもので、そうした声が韓国の中では大きくなってきたのです。
それは韓国社会の中だけではなく、司法の声となっても現れています。慰安婦問題等について問題解決のための韓国政府(行政府)のさらなる努力を求めた2011年8月の憲法裁判所の決定、徴用者問題について被害者個人の賠償請求権を認めた12年5月の最高裁判所の差し戻し判決は、まさに 1965年当時の国交正常化のやり方を再考すべき、という司法の側からの声です。こうした韓国社会や司法からの突き上げに対して、韓国政府は日本との国家間の約束をどうやって守っていくのか、という非常に厳しい立場に置かれているのです。
現実の利害の一致が和解を支える
細谷 話を聞けば聞くほど、難しいことを実感します。特に韓国の場合は、中国、アメリカと比べても難しい要素があるのだろうと思います。場合によっては以前より難しくなっている。よりいっそう知恵を絞らなければいけない時代に入っているのかもしれません。
渡部 戦後70年の日米関係は全般的に良好であったということには多くの人に賛同いただけるのではないでしょうか。その間日本は反米左派や右派のナショナリストを抱え、悩みながらも折り合いをつけてきた。
今年6月にドイツのエルマウで主要7カ国(G7)首脳会合が行われました。共同宣言で、海洋安全保障に関して、「東シナ海及び南シナ海での緊張を懸念している。……威嚇,強制又は武力の行使、及び、大規模な埋立てを含む、現状の変更を試みるいかなる一方的行動にも強く反対する」という文言が入っています。明らかに中国を指しているわけですが、この文言は日米が入れました。こうして世界的規範が補強されているわけです。
同じようなことは、2014年3月にロシアがG8から除外されたことにも表れています。ロシアがウクライナのクリミア半島を併合したことに対抗して他の7カ国の首脳が決定したことです。アメリカはこのようなリベラルな世界秩序の維持に大きな利益をもち、理念的な支持も強く、それを力が支えている。日本はアメリカの維持する秩序に共通の利益をもち、その理念に賛同して、戦後一貫して協力してきている。このような現実の利害の一致にも、日米両国民の基本的な和解は支えられている。
でも、そうでもない時期も一瞬ですがありました。私が米国ニューヨークに留学中の1989年当時、現地の日本人社会の中では、真珠湾攻撃記念日の12月7日には「日本人は外出を控えたほうがいい」といわれていました。当時は冷戦が終結したころで、日米貿易摩擦が激化して日米関係が悪くなった時期です。
アメリカは冷戦に勝利した。ソ連は崩壊し、ベルリンの壁も崩れた。ところが、アメリカの経済力が弱くなり、一方日本、ドイツなど旧敵国は絶好調。それに対する反発から日本異質論が出る。“日本は真の民主主義国家ではない。集団主義的でアンフェアな国”というたいへんな誤解がメディアやアカデミズムからなされました。私はその誤解の理由を知りたくて米国に留学したぐらいです。政治学も、日本異質論への反論のための理論的な土台をつくるために勉強しはじめたところもあります。
ただ、その時にわかったのは、国家間の関係自体が悪いと歴史認識や文化の違いなどの要素が動員されて、負のイメージづくりに使われてしまうということ。逆に関係がよくなると、マイナスイメージは払しょくされるんですね。米国のハリウッド映画もそういった多くの人がもつイメージを使ってつくられています。例えば、ショーン・コネリーが出演している映画『ライジング・サン』。日本企業による米企業の買収、市場進出が問題視されていた1990年代前半のカリフォルニア州を舞台にした日米経済摩擦サスペンスですが、悪役の殺人犯は日本人の財閥の息子です。
第二次世界大戦前後を題材にした作品はナチスドイツ、冷戦期はロシア、9・11のころはアラブが悪役でした。イメージに基づいて悪役もぐるぐる回っている。ただし、アメリカは民主主義国家だから、それが売れなかったり、つまらなかったりしたら、“悪役レッテル貼り”はなされなくなる。それがデモクラシーのいい部分ともいえます。
一方、デモクラシーには困った部分もあります。例えば韓国系アメリカ人が、日韓間の問題を米国にもち込んでいろいろな活動をする。米国内では当然ながら自由ですから。そうすると「アメリカを舞台になぜ韓国が反日をやっているのか」とワンクッション置いたかたちで日韓関係が複雑化する。アメリカの民主社会が大らかなところの負の側面でもあります。
だから、アメリカのデモクラシーはマイナスの部分も多少あるけれども、大きなところではプラスになっているということ、そして民主主義や人権を中心にしたアメリカ人が共有する基本的な理念はよく理解しておく必要がある。歴史認識問題は今のところ日米間では大きな問題にはなっていないけれど、タイミングが悪ければ政治問題化することもあるので、要ウォッチではあるのです。
「安倍談話」に期待すること
細谷 これまでお三方にご指摘いただいた日中、日韓、日米関係のこれまでたどってきた道のりを前提として、三つめと四つめの質問、「戦後70年を迎える今年、それぞれの二国間関係には何が必要なのか、日本はどういう政策をとるべきか」「『安倍談話』に何を期待するか」。それぞれお知恵をいただければと思います。
川島 私が関係している委員会などから与えられている制約はありますが、可能な範囲で話したいと思います。
2014年の内閣府の「外交に関する世論調査」を見ると、日本の中国に対する国民感情は、「親しみを感じない」人が8割を占めます。沖縄県で同じ調査をしたら、それよりはるかに多くの方々が「親しみを感じない」となっています。他方、中国側もほぼ同数の方が、日本に対して「親しみを感じない」といっている。今、互いに国民感情が悪い状態です。
1980年代の同じ調査では、日本の7割以上の人が中国に対して「親しみを感じる」といっていました。中国でも当時日本映画ブームがありましたし、かなり高い数字が出ていたと思われます。
互いに対する国民感情が逆転したのは1989年の天安門事件、96年の台湾海峡ミサイル危機、そして2005年の反日デモのあたりです。
ただ、言論NPOの「日中共同世論調査」を見ると、「相手の国を重要だと思いますか」との問いに、2014年の調査では、日本人の7割が中国は大事だと答え、中国人の6割が日本は大事だと答えているのです。
つまり、「親しみは感じないけれど、大事だ」ということになります。これは、それほどおかしな関係ではありません。私自身は、親しみを取り戻す努力を無理にするより、ある種の緊張関係をはらみながらも信頼関係を築く、相手を重要と思いながら相手をしっかり批判的に見る、という関係になっていくのが自然のように感じます。
とりわけ日本にとって中国は第一の貿易相手国です。いろいろ問題があるにせよ、当面は日本経済にとって重要な相手になることは、ほぼ間違いありません。中国が拡大しているのは確かですが、日本、そして世界の今後にとって、中国の安全保障、政治のあり方が重要であることは否定できないと思います。ですから、大事なことは、しっかり見ること、観察すること、目を背けないこと。決めつけをしないで観察するのは、なかなかたいへんなことです。しかしこれらのことをやらねばならないほど中国は大きな存在になってしまったと思います。
また、ひとつ重要なことは、中国にとっても日本は敏感な存在だということです。今さまざまな“抗日ドラマ”が放映されていて、例えば「私の祖父は9歳で日本兵に殺されました」というような時代考証が乱れたものがあふれている。日本に関して厳しい教育をしてきた中国共産党が自らの首を絞めているわけですが、一面で日本に対する国民感情が悪化していることも確かです。とりわけ尖閣諸島の問題が起き、温家宝総理が日本との和解へもっていこうとして失敗したあと、2009年あたりから中国の対日政策はより敏感になりました。民間では日本の製品や漫画などへの肯定的な評価も見られますが、公の場での日本評価は厳しいものがあります。そして、経済発展をめざすグループは日本との関係を重視しますが、そうでないグループは日本との領土問題を強調するという面があります。中国国内の政治路線対立が対日政策の分岐にも関わっているのです。ですから、中国内で政治レベルの問題が生じると、日本に対してどういう姿勢をとるかによって、政治が国内世論から突き上げをくらうのです。そういう中で中国にとって日本は扱いにくい相手になりつつあると思われます。
そうしたことを考えると、互いに話し合えることは話し合って、対立を大きくするのをなるべく防いでいくことが、当面の合意事項になっていくでしょう。この半年ほどの習近平国家主席の対応は、振り子の針が振れすぎない範囲で止めるという判断だったのだろうと思われます。
「安倍談話」に何を期待するか――。私はわかりませんけれども、1945年以前をどう見るか、戦後70年をどう見るか、そして21世紀をどう見るか、という3つのパートがあるとすると、村山談話と小泉談話とは異なる特徴が出ると思います。この2つの談話はどちらかというと過去、つまり1945年以前に重きがありましたが、「安倍談話」はおそらく、戦後70年の歩み、あるいは戦後日中間で積み重ねてきた和解の取り組みに重点を置くものになるだろうと思われます。過去への反省をふまえ、事実認定をした上で、足りなかったことを今後やっていく、という発想になると思います。
個人的には、先ほど指摘した中国をきちんと見るということを大前提にして、2007年4月12日の温家宝総理の国会演説をふまえていくつかやることがあると思っています。
一つは1994年には、翌95年のものとは異なる村山談話とともに「平和友好交流計画」が始まりました。日本と戦争の関係があった欧州、アジアの国に対して、未来の和解に向かって市民レベルでの和解のプロセスを進める、交流するために日本は大きな予算をつけてきたのです。そうした努力は今後とも続けていくべきだと考えます。「許すが忘れない」といってくれている国であっても、「忘れない」という目線がある以上は、われわれはその歴史を忘れていないということを表現し続ける必要があると思われます。「許さない、忘れない」という国に対しては余計にそうです。
また、戦前の事実のみならず、戦後の日本の和解への取り組みに関する事実をしっかりと発信することが大事です。例えば、アジア歴史資料センターのウェブサイトは、国の機関が所蔵公開している歴史資料――国立公文書館、外務省外交史料館、防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵の資料――を無料でダウンロードできる便利なものです。でもなぜか戦前部分しか公開していません。もし戦後の日本の和解への取り組み、国際社会への貢献を扱っていれば、戦後70年の歩みの理解も進むでしょう。
そのほか歴史教育の強化も問題です。
最後にひとこと申し上げたいことがあります。東アジアを見る上で私自身が懸念しているのが台湾です。日本では、台湾は親日的だと思われがちですが、そんなに単純なものではありません。センシティブな動きが台湾内部で多々起こっています。台湾の状況の変化に応じて、日中関係も、日米関係も、沖縄の位置づけも変わってきます。台湾の政府のみならず、社会との和解も真剣に考えなければならない時代に入っていると感じています。
2倍謙虚になり、相手に対しては2倍寛容になれば
西野 大きく3点申し上げます。まず1点目に、日韓間でも互いの認識は悪化しています。内閣府の「外交に関する世論調査」では過去最低値を記録。日本では3人のうち2人が韓国に対して親近感を感じていない状況で、きわめて深刻です。対照的に、2009年ころまでは3人に2人が韓国に「親近感を感じる」と答えていました。一方、韓国の対日感情も非常に悪いのですが、これはほぼ一定の割合でずっと悪いのです。
日本の対韓感情が悪化する直接の引き金になったのは、2012年8月の当時の李明博(イ・ミョンバク)大統領の竹島上陸や天皇に関する発言等です。それ以来、日本の対韓感情は悪いままです。両国の指導者はこの深刻な状況をしっかり認識して、これ以上両国関係が悪くならないようにマネジメントすることが必要だと思います。
幸い、6月22日の日韓国交正常化50周年を記念するソウル、東京でのレセプションには両国の指導者が参席されました。何とかこのタイミングで関係改善のきっかけをつかみたいという両国指導者の意思があったのだろうと好意的に解釈しています。この流れを秋以降、日中韓首脳会談の実現など何らかのかたちでより前に進めてほしいです。
2点目ですが、最近韓国側でいわれているツー・トラック(Two Track)政策、つまり歴史の問題はそれ以外のものとは切り離して扱い、歴史問題が日韓関係のほかの領域に悪影響を与えないようにする、ということは当然必要だと思います。
ただし、それは歴史問題を置き去りにするということではなくて、歴史問題についても解決に向けたたゆまない努力は必要です。韓国社会も日本社会も1965年当時とは大きく変わってきていますので、日韓ともにまずはその現実を受けとめて、それに基づいて何ができるのか、慎重に、かつ粘り強くアプローチしていくべきでしょう。
これと関連して申し上げたいことがあります。歴史問題以外の領域、すなわち経済、文化、人的交流、最近では安全保障での日韓交流・協力は実はかなり進んでいます。残念ながら、こうした前向きな部分はあまりフォーカスされていません。日韓関係は多重的かつ多層的で、歴史問題は重要だけれども、その中の一部です。それ以外の領域にも目を向けて、日韓関係を育てていく努力はすべきだと思います。
3点目に、「安倍談話」へは2つのことを期待しています。
第1は、国際社会から歓迎されるメッセージを発信することです。韓国、中国との関係は重要ですし、両国から歓迎される談話を出せればいいとは思います。とはいえ、安倍総理のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年記念首脳会議での演説、アメリカ連邦議会の上下両院合同会議での演説、あるいは21世紀構想懇談会の議論等から推察される談話の内容については、韓国から高い評価を得るのは難しいと思います。しかしながら、過去の日本の歩みをふまえた上で、今後日本は国際社会にどう貢献していくのかというメッセージを力強く打ち出し、国際社会から高く評価されれば、条件はひとつクリアされると思います。
第2に、韓国との関係についてですが、これまでの日韓関係の歩みは日韓でともにつくり上げてきたものだということを、韓国側、韓国国民に対して粘り強く知らせていくことが必要だと思います。その意味では、昨年6月に公表された「河野談話」の検証結果に関する報告書において、1990年代以降これまで、歴史問題、従軍慰安婦問題に対して日韓政府がともに真摯に取り組んできたことが改めて明らかになったわけです。報告書に対しては韓国側から強い反発がありました。また、朴槿恵大統領は「まず日本側が誠意を見せるべき」という態度をとり続けています。しかし、日本側が誠意を見せた際に韓国側はどういう取り組みをし、それによって日韓両政府がどういうかたちで歴史問題、とりわけ慰安婦問題を落着させることができるのか、ということについて、もっと日韓はともに真摯なかたちで議論すべきだと思っています。
渡部 今ご指摘の、韓国側の対応があってこその日韓関係、というのは重要な要素です。今年3月、ドイツのメルケル首相が東京で講演した時、ドイツが隣国フランスと和解できたことについて、「フランスの寛容な振る舞いがなければ可能ではなかった」と発言されました。深い言葉です。
アメリカと日本は、和解が必要な部分はあまりない。ただ、日本が周辺国と和解できない国であれば、アメリカにとってアジアの同盟国としての日本の価値は低下する。そういう意味で、日米関係をよくしていく上で周辺国との和解に向けて努力することは重要。同時に、国際秩序、規範を守る、という共通価値と利益の共有も重要です。
日本はそもそも国際社会で何をしたいのか、どのような国際秩序をつくりたいのかを明らかにし、それを反映させる政策をとる必要がある。そういう意味で私は安倍総理の掲げる積極的平和主義には、好感をもっています。日本が積極的に地域の安定に貢献するためにこれまでの法的な制約を緩めようとしている事実は、日本という国家がもう一歩、成熟した国家に近づくために必要なステップだと思う。残念ながら、国民向けの説明がうまくいっていないところはありますが……。「安倍談話」はそうした政策と矛盾のないものでなければいけない。独善的に過去を否定する後ろ向きなものはやめたほうがいい。同時に内向き姿勢もやめたほうがいい。今の安保法制をめぐる議論を見ていると、反対派は内向きです。外向きに貢献することを怖がっている。「安倍談話」には今まで日本は国際社会にどれだけ貢献してきたのか、そしてまたこれからも努力してより大きな貢献をしていくということを入れればいいと思います。
細谷 卑近な例で恐縮ですが、私が担当するゼミでも時には人間関係が難しくなることがあります。どうしても自分のやっている努力が大きく見える。相手の努力は見えない。ですので、私がよくいうのは、自分の努力を半分にして考えるようにして、相手の努力を2倍にして考えるようにすると、実際の大きさに近くなるのではないか、ということです。2倍謙虚になり、相手に対しては2倍寛容になる。そうすれば自分を過剰に高く評価するということが修正されて、適切な評価になるのではないか。韓国、中国、アメリカを批判するのは簡単ですが、そうではなくて、まずは自らの行っていることを謙虚に見つめ直すことによって、さまざまなヒントが見えてくるのでしょう。
本日は貴重なご議論をありがとうございました。
登壇者略歴
川島 真(かわしま・しん)
東京財団政治外交検証研究会メンバー /東京大学大学院総合文化研究科教授
東京外国語大学中国語学科卒業、東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学後、博士(文学)。北海道大学法学部助教授を経て現職。安倍総理の「21世紀構想懇談会」メンバー。著書に『チャイナ・リスク』(編著)、『対立と共存の歴史認識―日中関係150年』(編著)、『近代国家への模索 1894-1925』、『中国近代外交の形成』(サントリー学芸賞)など多数。
西野 純也(にしの・じゅんや)
東京財団政治外交検証研究会メンバー /慶應義塾大学法学部准教授
慶應義塾大学法学部政治学科卒業、同大学大学院法学研究科政治学専攻修士課程修了、延世大学大学院政治学科博士課程修了(政治学博士)。在韓国日本大使館政治部専門調査員、外務省国際情報統括官組織専門分析員などを経て2010年より現職。この間、日韓新時代共同研究プロジェクト日本側幹事、ハーバード大学・エンチン研究所交換研究員、ウッドロー・ウィルソン・センターのジャパン・スカラーおよびジョージ・ワシントン大学シグール・センター訪問研究員。編著書に『朝鮮半島の秩序再編』、『転換期の東アジアと北朝鮮問題』など。
細谷 雄一(ほそや・ゆういち)
東京財団上席研究員 ・ 政治外交検証研究会サブリーダー /慶應義塾大学法学部教授
立教大学法学部法学科卒業、英国バーミンガム大学大学院国際関係学修士号取得(MIS)、應義塾大学大学院修士課程修了(法学修士)、同大学大学院博士課程修了(法学博士)。北海道大学法学部専任講師、敬愛大学国際学部専任講師、プリンストン大学客員研究員、パリ政治学院客員教授などを経て現職。安倍総理の「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」および「安全保障と防衛力に関する懇談会」メンバー。著書に『戦後史の解放? 歴史認識とは何か―日露戦争からアジア太平洋戦争まで』、『国際秩序―18世紀ヨーロッパから21世紀アジアへ』『倫理的な戦争―トニー・ブレアの栄光と挫折』(読売・吉野作造賞)『戦後国際秩序とイギリス外交』(サントリー学芸賞)など多数。
渡部 恒雄(わたなべ・つねお)
東京財団上席研究員 兼 政策研究ディレクター
東北大学歯学部卒業。歯科医師を経てニュースクール大学で政治学修士課程修了。1996~2005年戦略国際問題研究所(CSIS)にて上級研究員などを務め、05年帰国。三井物産戦略研究所主任研究員を経て現職。CSIS非常勤研究員、沖縄平和協力センター上席研究員を兼ねる。著書に『武器輸出三原則はどうして見直されたのか?』(共著)、『論集 日本の安全保障と防衛政策』(共著)、『今のアメリカがわかる本―揺れる超大国 再生か、荒廃か?』、『二〇二五年米中逆転』など。