R-2022-106
・テクノクラートの物語としての『グローバル・ヘルス法』 ・グローバル・ヘルスを主導する規範理念 ・主導的理念の移り変わり ・グローバル・ヘルスをみる目 |
テクノクラートの物語としての『グローバル・ヘルス法』
このたび私が出版した『グローバル・ヘルス法』(名古屋大学出版会・2022年)の内容をただひとことで要約せよと言われれば、これは保健を専門とする国際機関に集ったテクノクラートの物語だと答えよう。連盟保健機関や世界保健機関(WHO)などの専門的国際機関の活動の実質を担った保健専門家たちは、そのネットワークを利用しつつ、国境を越えた保健協力プロジェクトを企画し、実現していった。グローバル・ヘルス法という制度がありうるとすれば、それはこのような専門家の営みのなかにあるはずだ。
ではテクノクラートとは、いったい、どのような人々なのだろう。ここでもし、<政治的指導層が下す決定を、技術的立場から粛々と実現する中立的な専門家集団>を思い浮かべるなら、それは、グローバル・ヘルスを担った専門家たちの姿から大きく外れることとなろう。
私は、テクノクラートとして、それとまったく異なるタイプの人間を念頭に置いている。極論を承知で言えば、それは例えば、五味川純平の小説『人間の條件』の主人公・梶のようなタイプである。アジア太平洋戦争のただなかの日本において、社会主義的な信念を持ち、帝国主義戦争に内心で反対する梶は、しかしながら反戦・反政府運動に身を投じることもできず、ただ自らの役職上の任務の範囲内において、わずかでも人道的で正義に即した生き方を求めることを選ぶ。そして、満洲において鉱山の労務管理の地位につき、統計を扱う優れた技能を生かして、生産性の向上に貢献してゆく。その際、中国人労働者を無用に苦しめている暴力的で搾取的な労働監督制度を廃止すること、勤労意欲を損なう危険で劣悪な労働環境を改善することが、経営的にも合理的であると強く主張して、その信念を貫こうとする。すなわち、植民地企業の利益に奉仕する限りにおいて、自らの正義をもわずかに実現する可能性を追求するのである。
1956年から順次出版された『人間の條件』はベストセラーになり、当時の多くの若者に読まれた。仲代達矢主演の映画化作品を観ることが、大学新入生の通過儀礼であったとも伝え聞く。政治的現実に深く失望しつつも、自らに委ねられた領分においてぎりぎりの正義と信念を守ろうとする梶の姿が、将来のテクノクラートたちの心をとらえたことは記憶されてよいだろう。それは、有力な政治指導者のアドヴァイザーとなって良き政策形成に貢献することを望む、というような健やかなエリートの心性とはかなり異なるけれども、それだけにいっそう、20世紀という時代の緊迫感を伝えている。
20世紀においてグローバル・ヘルスの発展を支えたテクノクラートたちは、国家間の政治的決定を粛々と実施する技術的行政官というより、むしろ、その専門性に裏付けられた規範的理念を国際政治の現実に抗してでも実現しようとする政治的な人間たちであった。連盟保健機関の実質的な事務局長として戦間期の保健協力を主導したルドヴィク・ライヒマンは、医学生であった若き日に、社会主義に基づく社会改革とポーランドの独立を希求し、その活動のために投獄され、亡命を余儀なくされている。WHOの設立にも深くかかわったアンドリヤ・シュタンパーは、人々の健康を損なう社会的・環境的要因を除去し、病に対して強靭な社会を作り出すことを目指してその生涯を賭し、祖国ユーゴスラヴィアにおいて社会改革的な保健政策を実践した(ナチス支配下では収容所に送られた経験もある)。1980年代のWHOにおいてエイズ・プログラムを主導したジョナサン・マンは、人権が保障されていないところに病気に対する脆弱性が存在する、という人権アプローチを提唱し、人権を基準とする社会改革を保健政策に組み込んでいった。単なる技術ではなく、正義が、彼らの行動の原動力であったといってよいだろう。
グローバル・ヘルスを主導する規範理念
テクノクラートたちが担う保健協力の諸活動のなかにグローバル・ヘルス法を見出すことが『グローバル・ヘルス法』の主題である。だからといって、あれやこれやの国際的な保健協力事業、例えば、熱帯における伝染病媒介蚊の撲滅事業や、貧困地域でのワクチンの配布、あるいは、農村における保健施設の整備などの多様な事業を数え上げたとしても、それだけでは、単にさまざまの博愛的活動の寄せ集めとしてのみ把握できるのであって、そこから「グローバル・ヘルス法」という体系が生まれ出るわけではない。グローバル・ヘルス法という、まとまりをもった制度が存在するためには、それに含まれる諸活動をまとめ上げる求心的な何かが必要である。
ここでは、それを「ヘルス」の理念に求める。グローバル・ヘルスに携わる専門家たちに広く共有される規範的な「ヘルス」の理念が存在し、その実現に向けられた保健協力の諸活動を、ひとまとまりの制度として把握することができる。言い換えれば、グローバル・ヘルス法とは、「ヘルスという規範的理念を、現にある世界において実現することを目的とする制度」である。
では、その共有された規範的理念としての「ヘルス」とは何か。それはWHO憲章前文において次のように定義されている。「ヘルスとは、身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態のことであって、単に病気や虚弱が存在しないことではない」。この定義からは奇妙な印象を受けるだろう。定義においては、その記述に含まれていないものは当然に除外されているはずである。したがって、簡潔な定義は、通常、「○○でない」というような否定を含まない。「身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態」が、「病気や虚弱が存在しないこと」でないのは当然のことだ。にもかかわらず、なぜヘルスの定義は、それを重ねて否定するだろうか。
この一見したところ意味のない否定の中には、ヘルスの理念をめぐる鋭い対抗が表現されている。保健協力の歴史においてその対抗があまりにも強い意味を持ってきたために、定義においてさえ、その一方を否定する記述を置かざるを得なかったのだ。すなわち、グローバル・ヘルスの歴史を規定してきた理念的な対抗関係を前提としたうえで、その一方をとり、他方を否定するという、秩序構成的な意味をこの定義は含んでいる。
この対抗を構成する二つの理念を、ここでは「生物医学的理念」と「社会医学的理念」と呼ぶ。生物医学的理念とは、ワクチンや薬剤などの技術的手段を用いて、病気(とりわけ感染症)を一つずつ制圧し、病気の存在しない状態を作ることを目指す。それに対し、社会医学的保健理念は、保健インフラの整備や、住環境・労働条件の改善などを通じて、病気にかかりにくい良好な社会状態を作り出すことを目標とする。前者が、先進国において開発された効果的で効率的な技術を世界中で用いること(「垂直的」保健政策)を重視するのに対し、後者においては、現地の人々が健康に対する知識と関心を高め、主体的な取り組みによって全般的な健康状態を改善してゆくこと(「水平的」保健政策)が理想とされる。
国境を超える保健協力の歴史においては、この二つの理念が厳しく対立し、その諸活動を規定してきた。したがって、この二つの規範理念をめぐる動態としてグローバル・ヘルス法の歴史を描くのは自然なことであろう。しばしば主権の所在をめぐる理念的対抗を軸に憲法の歴史が記述されるように、その体系の中核的な理念をめぐる対抗を基軸として法の歴史を叙述することは、何ら奇を衒ったものではなく、むしろ古典的な手法を踏襲している。
主導的理念の移り変わり
1880年代以降、ロベルト・コッホや北里柴三郎ら、医学史上の偉人たちによって、コレラやペストなど、人類を苦しめてきたさまざまな伝染病の病原体が発見された。これらの発見は、特定の病原体を狙い撃ちにする技術的手段によって伝染病を制圧しうるという希望を抱かせるものであった。このような技術的手段による伝染病対策は、おもに植民地における医療・保健政策において重用された。その代表例が、パナマにおいて効果的な黄熱病・マラリア対策を実施して運河開削を成功に導いた軍医ゴーガスの功績である。
他方で、先進国の経験は、別の方向を示していた。20世紀初頭のヨーロッパや北アメリカの諸国において、それら伝染病が克服されていったのは、ワクチンや治療薬などの技術的手段の開発によるのではなく、むしろ、労働条件や住環境、栄養状態など全般的な生活環境の向上によるところが大きかった。それゆえ、保健専門家は、おのずと社会政策的な側面を重視するようになった。1930年代の先進的な保健専門家たちは、社会医学的な理念を共有し、病気に対して強靭な社会を作り出す包括的な保健政策を推進した。第2次世界大戦後にWHO設立を主導するのは、1930年代から活躍していた保健専門家たちであり、したがって、WHO憲章に社会医学的な保健理念が組み込まれたのは当然といえる。すなわち、同憲章前文におけるヘルスの定義は、生物医学的理念をことさらに否定し、社会医学的理念を全面的に採用するという、明確で強い選択を示している。
とはいえ、設立当初のWHOが社会医学的理念に基づく包括的な保健政策にまい進したかと言えば、そうではない。冷戦初期の厳しいイデオロギー対立の下で、アメリカ合衆国が社会政策的な志向を忌避したのである。レッド・パージが吹き荒れる中では、穏健な社会政策的主張もまた共産主義思想と混同され、攻撃の対象となった。アメリカの外交政策からすれば、社会秩序の変更を伴うような包括的保健政策よりも、技術的な手段によって感染症のみを抑え込む生物医学的な政策が政治的に望ましかった。予算不足に苦しむ国際機関が、最大の資金提供国であるアメリカの意向に逆らうことはできない。それゆえ、初期のWHOは、むしろ、技術的手段を中心とする生物医学的政策を採用した。
潮目が変わるのは1970年代である。アメリカの主導で世界的に実施された(DDTの大量散布による)マラリア根絶事業が失敗に終わったこと、従属理論や新国際経済秩序に代表されるような、従来の国際関係に対する根本的な反省が行われるようになったことなどを背景として、保健協力政策の見直しが進められたのである。その象徴ともいえるのが、1978年に採択されたアルマ・アタ宣言であった。そこでは、社会的要因の改善を含む包括的な保健政策が謳われ、2000年までに、すべての人が「社会的・経済的にみて高い生産性を持つ生活を送ることができる健康水準」に到達することが目標として掲げられた。
こうして、「プライマリ・ヘルス・ケア」と呼ばれる包括的な保健政策思想がWHOの原則として採用されたものの、その実現は容易ではなかった。とりわけ、1980年代から、先進国の対外援助政策が新自由主義的な傾向を強めていったことが大きな打撃となった。福祉国家に批判的な思想からすれば、健康は、国家が万人に保障すべき権利ではなく、個人がその資力と余暇の範囲において自由に獲得すべき財である。最も効率的な財の配分方法は市場であり、したがって、保健は、公的部門でなく民間部門によって担われるべきだということになる。このような考え方が勢いを増すなら、公的部門との協力を通じて保健政策を実施してきたWHOの存在意義はそれだけ減殺される。
1990年代を通じて深刻な危機に陥ったWHOは、ブルントラント事務局長による改革路線によって息を吹き返し、21世紀かけてグローバル・ヘルスにおける確固たる地位を取り戻していったように見える。とはいえ、彼女の改革は、新自由主義的な政策傾向に立ち向かうというよりも、それに順応するものであった。すなわち、健康の経済的な価値を強調し、健康への投資が経済政策として有意義であることを売り込んだのである。このような思考の下では、保健政策は投資の論理に従うこととなり、それゆえ、意思決定において費用対効果の観点が重要な役割を果たすようになる。そして、費用対効果の見えにくい包括的保健政策よりも、その計算の容易な技術的な手段による生物医学的な政策が好まれるようになっていく。今日のCOVID-19対策においても、WHOがまず取り組んだのは、公私パートナーシップの枠組みを用いた資金提供を通じて、ワクチンを中心とする技術的手段を効率的に普及させることであった。
グローバル・ヘルスをみる目
保健専門家たちに共有され、したがってグローバル・ヘルスの諸活動を主導する規範的理念をめぐっては強い対抗関係が存在し、その対抗はいまだに決着がついていない。私の著書『グローバル・ヘルス法』は、この対抗を軸として、ヘルスの理念をグローバルに実現する制度の歴史的動態を概観したものである。これは、従来の国際法学の方法からは大きく外れている。専門家ネットワークによって担われる規範理念実現の営みは、国際組織の設立条約の解釈や国際組織に関連する判例の分析という従来的な方法によっては、決して把握することはできないからである。また、国際組織を扱う国際政治学の方法に即しているわけでもない。専門国際機関に対する国際政治学的なアプローチとしては機能主義がよく知られている。これは、専門国際機関の活動の技術的・非政治的性格に着目する方法である。しかし、私が強調したいのは、グローバル・ヘルスにおける諸活動が、強固な規範理念に基づく、極めて政治的な営みだということである。それは、政治的な緊張のないところでひっそりと行われてきたわけではなく、専門性に裏打ちされた信念に基づいて、ときに大国の政治的利益との間に緊張を呼び起こしつつ、実現されてきた。
確立した学問的手法から外れてしまったことを誇るつもりはない。しかし、踏み固められた道からは見えない領野が広がっているとすれば、外へ踏み出すことを恐れるべきではない。