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貨幣の基本的な機能は価値尺度、流通手段、価値貯蔵手段の三つといわれている。貨幣の歴史を振り返れば、それは商業の発達とともに徐々に進化する過程をたどっており、使い勝手の良さ、すなわち、利便性が徐々に高まる歴史だった。専門家の研究によれば、最初に紙幣が使われたのは中国の宋王朝(960-1279年)だったといわれている[1]。
なぜ宋王朝に紙幣が出現したのか。それは、まったくの偶然ではなかった。中国の歴史において宋はもっとも商業が発達した王朝だったといわれている。京都学派の内藤湖南氏[2]によれば、中国の近代化は宋代から始まったという。イギリスの産業革命より数世紀も早い時期である。
・紙幣の出現と金融システムの近代化 ・スマホ決済からデジタル人民元(e-CNY)への躍進 ・デジタル人民元導入の実証実験 |
紙幣の出現と金融システムの近代化
むろん、紙幣が使われはじめると同時に金融制度と金融システムが近代化したわけではない。金融制度と金融システムが急速に近代化したのは、具体的には20世紀に入ってからである。そのプロセスでさまざまな金融商品が開発され、資源配分の効率化に大きく寄与している。こうしたなかで、中国は実体経済の自由化と国際化に比べ、金融の自由化と国際化が大幅に遅れている。とくに中国政府は、金融の国際化について慎重な姿勢を一貫して崩していない。金融のイノベーションを試みるならば、国内で先行して実施するという考えである。
そもそもイノベーションが起きるきっかけは、現状に満足しないことから始まるものである。中国では、政府が人民元のデジタル化を試みる前に、eCommerce最大手のアリババやSNSを運営するテンセントなどの民営企業が新しいビジネスモデルとして使い勝手の良いスマホ決済(デジタル決済)を考案し、一気に普及した。それは中国社会で偽造紙幣(偽札)が横行していることと無関係ではない。
中国以外の主要国では、一般的にクレジットカードやデビットカードを使った決済が多い。一方、中国社会では、クレジットカードは思ったより普及していない。なぜならば、クレジットカードは決済されてから支払いがなされるまでの間、一定期間のタイムラグが生じるからである。社会信用が十分に確立されていない中国社会では、クレジットカードよりもデビットカードのほうが多く使われる。スマホ決済はデビットカードをデジタル化したものである。デビット機能は決済と同時に支払いがなされ、詐欺に遭う心配が少ない。
アリババが開発した決済ツールのアリペイ(Alipay「支付宝」)は、アリババのショッピングサイト「タオバオ」(Taobao「淘宝網」)や「テンマオ」(Tmail「天猫」)などで買い物をするときに使用されるため、広く普及している。テンセントが開発したウィーチャットペイ(WeChat Pay「微信支付」)も、ネットショッピングだけでなく、タクシーや普通のスーパー等の小売店などオフラインの支払いにも広く使われ普及している。
スマホ決済からデジタル人民元(e-CNY)への躍進
ただし、スマホ決済はあくまでも支払い手段のデジタル化であり、デジタル通貨ではない。要するに、スマホ決済はクレジットカードやデビットカードのようなもので、決済とともに、自分の銀行口座から店の銀行口座に代金を移動させる必要がある。それに対して、デジタル通貨は基本的に現金での支払いと同じように、個人のウォレットから店のウォレットに買い物の代金を直接、デジタル通貨で支払いできる。銀行を介する必要はない。
振り返れば、IT革命が始まったのは1990年代だったが、それによって人々の生活は大きく変容した。それは情報の消費量の爆発的な増加と情報再生産のスピードの速さに代表されるものである。中国人民銀行が発表した「中国のデジタル人民元研究開発と進展白書」[3]によると、経済活動のデジタル化がデジタル人民元の研究開発を進める重要な背景であると指摘されている。現状においては、現金決済の回数および金額の減少とスマホ決済の普及も人民元デジタル化を進める有利な条件になっているといわれている。中国での現金決済の回数は全体の23%、金額にして同16%にまで減少したといわれている(いずれも2019年現在)。クレジットカードやデビットカードを使った決済の回数は全体の7%、金額にして23%だった。それらに対して、スマホ決済の回数は66%、金額にして59%に達した。これらの結果は、中国人の多くがデジタル決済ツールの利用に慣熟していることを指しているといえるかもしれない。ちなみに、2021年末現在のデータによると、中国のインターネット利用人口は9億人を超えているという。
この白書の意味するところは、デジタル人民元を導入するタイミングがすでに到来しているということである。現金決済の場合、紙幣の印刷コスト、輸送、回収、偽札対策などさまざまなコストがかかるため、これらの点からもデジタル人民元を導入した場合のメリットが大きいと認められているようだ。
中国人民銀行(中央銀行)によると、デジタル人民元は現金の人民元と同じように貨幣の三つの基本機能(価値尺度、流通手段、価値貯蔵手段)を持ち合わせるものである。そして、デジタル人民元は現金と同じように人民銀行の負債になる。一方、信用膨張の可能性はないといわれている。中島真志によると、中央銀行発行のデジタル通貨(CBDC)は「中央銀行→個人」の直接発行型と「中央銀行→商業銀行→個人」の間接発行型があるといわれている[4]。中国人民銀行の白書では、中国のデジタル人民元は中国人民銀行が集中管理する「二層運営」、すなわち、間接発行型になるといわれている。しかも、デジタル人民元と現金の人民元は長期にわたって併存すると強調されている。要するに、デジタル人民元が発行されたからといって、現金の人民元が使われなくなるという心配はないということのようである。
デジタル人民元導入の実証実験
日本では、なにか新しいことを試みるとき、まずルール作りあるいはルールの設計から始めるが、完璧なルールができるまで時間がかかってしまうことがある。それに対して、中国では、新しいことにチャレンジする際、まずは実証実験による検証を行うことが多い。デジタル人民元はすでに実証実験の段階に入っている。中国人民銀行の発表によると、デジタル人民元のシステム設計はすでに完成しており、実証実験を行って新しい問題が見つかれば、システムをさらに改善していくという。考え方としては間違っていない。
デジタル人民元の実験は、深圳、蘇州、成都、雄安[5]と、冬季オリンピック・パラリンピックで行われている。実験のなかでとくに注目されているのは、技術の設計の適正性、安定性と安全性、使い勝手の良さ、デジタル人民元の設計に対する社会の理解などといわれている。実験段階で、デジタル人民元は、スーパーやコンビニなどの小売り、レストラン、文教施設、病院、交通機関、政府機関などで使うことができる。デジタル人民元の使用を促すために、給与の一部や年金などがデジタル人民元で支給されているケースもある。ただし実験区での実証実験では、デジタル人民元の利用状況は予想よりも広がっていないようだ。
デジタル人民元は基本的に現金(M0)と同じであり、専用のウォレットにあるデジタル人民元に対しては利息が付与されない。この点はスマホ決済と大きく異なる。たとえば、アリババのアリペイの場合、事前に自分のアカウントにお金をチャージして、それを使って買い物ができるだけでなく、残高について利息が支払われる。おそらく多くの中国人は既存のスマホ決済に慣れており、その残高に応じて利息が付与されるため、わざわざデジタル人民元を使わなくてもいいと感じているのかもしれない。換言すれば、デジタル人民元を普及させるには、利便性や収益性を高めないといけないと思われる。
デジタル人民元の導入実験はまだ始まったばかりである。中国政府がデジタル通貨の標準化を狙い、その覇権を手に入れようと考えていると判断するには時期尚早である。むろん、デジタル通貨の実験を先行して成功させることができれば、将来的に人民元の国際化にも弾みがつくと予想される。現状では、デジタル人民元の実験はあくまでも国内の限られた都市や地域で遂行されている。実際に広く導入するにはブロックチェーンなど技術イノベーションの深化を待たなければならない。
参考文献:
Richard C. Burdekin, China’s Monetary Challenges Past Experiences & Future Prospects, Cambridge Press, 2008.
日本銀行(2021)「デジタル通貨に関連する情報技術の標準化」
艾瑞諮訊(2021)「中国数字人民幣発展研究報告」
[1]Eswar S. Prasad, The Future of Money How the Digital Revolution is Transforming Currencies Finance, The Belknap Press of Harvard University Press, 2021.
[2] 日本の東洋史学者。代表的な学説は「唐宋変革論」。
[3] 中国人民銀行(2021)『中国数字人民幣研究開発進展白書』
[4] 中島真志(2020)『仮想通貨vs.中央銀行―「デジタル通貨」の次なる覇者―』(新潮社)
[5] 雄安:「雄安新区」と呼ばれ、中国河北省に2017年4月1日に設置された国家級新区。