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1990年代、日本では、円の国際化について政策当局と研究者の間で広く議論がされていた。しかし、通貨の国際化の定義が曖昧なまま議論が展開されていた印象がなかったわけではない。そのうえ、「円の国際化はドル覇権に対する挑戦である」との指摘まで出ていたようだった。それはまったくの誤解といわざるを得ない。
そもそも、通貨の国際化には、国際貿易などにかかわる決済通貨としての役割を強化することに加え、諸外国における貯蓄通貨としてのウェートを高めることが含まれる。この2つの役割には「当該通貨に対する信任を欠かせない」という共通点がある。
・円の国際化 ・人民元の国際化 ・人民元のデジタル化 |
円の国際化
振り返れば、日本は1964年に国際通貨基金(IMF)協定8条国に移行した。すなわち、経常取引にかかわる規制が撤廃されたということである。それ以降、円は徐々にハードカレンシー(強い通貨)になっていったが、最後まで円の国際化は実現されなかった。当時の外国為替等審議会の記録をみるまでもないことだが、委員からは、国際貿易の決済において、円の使い勝手を良くしなければならないとの指摘が多く出ていた。すなわち、金融インフラを整備すれば、円が国際化すると思われていた。この考えは間違っていないが、不完全なものといわざるを得ない。
決済通貨としての円の使い勝手を良くすれば、ある程度、円に対する信任を高めることができるかもしれない。しかし日本の国策は、一貫して輸出を促進するため、円レートを割安のレベルに安定して維持することである。毎年巨額の貿易黒字が実現されるため、円高圧力が絶えずかかっている。
日本で、貯蓄通貨としての円の役割を高めようとする議論がほとんど出ていないのは不思議である。原因は日本の資本勘定が一貫して黒字であり、資本輸出能力が低いことにある。要するに、日本円は海外に出ていかないから、円の国際化が実現しなかった。この経済学のロジックを理解している人は意外にも多くないはずである。むろん、日本の政治指導者も、ドル覇権に挑戦しようと考えたことがほとんどなかったはずである。せいぜい国際貿易において、日本企業が為替の変動リスクを回避できるように、円による決済がある程度できるようにすればいいと考えたのだろう。
人民元の国際化
それに対して、中国はもう少し「野心的」かもしれない。
1996年12月、中国は経常取引にかかわる規制を撤廃し、IMF協定8条国に移行した。ここで忘れてはならないことがある。2年前の1994年まで、中国では、自国民が使う人民元とは別に、外国人が使う外貨兌換券(FEC)が同時に使われており、実質的に二重通貨制だった。外貨兌換券は、外貨不足を背景とする外貨集中政策のもとで導入されたものだったが、1994年になって外貨準備が増え、外貨不足が緩和されたことを受け廃止された。同時に、朱鎔基首相(当時)は大胆にもIMF協定8条国移行を決断した。当初、世界貿易機関(WTO)に加盟した2001年までに、資本取引の自由化も実現しようと考えていたようだが、1997年、アジア通貨危機が勃発した。その教訓の一つは「過度な金融自由化が通貨危機を招いてしまった」ことだといわれ、結果的に、中国政府は資本取引の自由化を先送りすることにした。
とはいえ、中国は大国であり、早晩、人民元の国際化を実現したいと考えている。むろん、かつての日本と同じように、国際社会において人民元に対する信任を高めなければならない。その目標ははっきりしているが、それを実現するのは決して簡単なことではない。現実的に考えれば、中国が人民元の国際化を実現するには、3つのステップがあると思われる。第一段階として、中国と国境を接している国々との貿易について、人民元で決済することである。実は、この第一段階の目標はほぼ実現しているといえる。中国の国境貿易のほとんどはドルではなく、人民元で決済されている。第二段階は、東アジア域内において人民元の決済ウェートを高めることである。そのために、人民元のオフショアクリアリングセンターを創設する必要がある。この第二段階の目標は完全には達成されていないが、現在進行形で進められている。かなり先のことになるが、第三段階として、フルセットの人民元国際化が目指される。それには中国国内の金融改革と金融の自由化を実現するという高いハードルが残されており、10年以内に実現することはないだろう。
常識的に考えれば、中国が目指すのは基軸通貨のドルに対する挑戦ではなく、ドル、円、ユーロに続く第4の国際通貨のステータスを手に入れることであろう。しかし、中国のことだから、目指す目標はもっと高いものに設定される。今の中国経済の実力を考えれば、人民元はドルに代わって新たな基軸通貨になることはできないが、ドルと同じぐらいのレベルまで人民元の役割を高めようとするだろう。それの実現に向けて、従来の文脈で人民元の使い勝手を良くして、それに対する信任を高めることに加え、人民元のデジタル化を大胆に進めることができれば、人民元の国際化が一気に進むと思われている。
人民元のデジタル化
そもそも中国は新興国ではあるが、IT技術については先進国といえる。eGovernmentやネットバンキングなどについて、先進国と比べてまったく引けを取らないレベルである。特に日本では、マイナンバーカードの取得率はまだ5割にも満たないため、eGovernmentはほとんど実現されていない。それに対して、中国では、ICチップが内蔵されている身分証明書(ID)が100パーセント普及しており、生活のデジタル化が急速に進んでいる。
それを受けて、中国政府が考えているのは人民元のデジタル化である。日米欧などの先進国でも、通貨のデジタル化について、それによるメリットと課題が十分に整理されておらず、それに向けた法整備も遅々として進んでいない。一方、中国では石橋を叩いて渡る考えが浸透していることもあって、ルール化以前に、人民元デジタル化の実験がいくつかの地域で行われている。ここで、ブロックチェーンなど技術面の課題について議論するつもりはない。これらの技術面の課題は、いずれイノベーションのなかで解決されるだろう。重要なのは、人民元のデジタル化が実現した際に、国際金融にどのような影響を与えるかを明らかにすることである。
ファーウェイを中心とする中国のIT企業が開発した5G 技術はすでに実用化されている。数年後、6Gの技術が必ずや開発される。そうなれば、デジタル通貨の普及において技術面の障害が一気に払しょくされることになる。たとえば、現在のネットシステムと通信ネットワークの制約ではキャパシティーが十分広げられず、通貨のデジタル化が限定的にしか実現されない。6Gが開発されれば、ネットワークの制約が解決されるだろう。大胆に展望すれば、途上国の多くは中国のデジタル人民元を受け入れると予想される。
習近平政権は意欲的に「一帯一路」イニシアティブを進めている。同時に、地域的な包括的経済連携協定(RCEP)をリードしつつ、環太平洋パートナーシップ協定(CPTPP)にも加入を申請している。これらの協定に、アメリカがいずれも加入していないのはまったくの偶然だろうか。少なくとも、アメリカがこれらの枠組みに加入していないというのは中国にとってラッキーなことといえる。要するに、このような経済連携の枠組みに乗じて、中国のデジタル人民元が広く使われるようになれば、人民元の国際化にとって強い追い風になるのは間違いない。
最後に指摘しておきたい点は、人民元の国際化にとって大きな妨げが存在していることである。それは中国国内の金融制度改革の遅れである。すなわち、人民元の国際化とデジタル化がプレーヤーを強化する考え方であるが、通貨を使うための器、すなわち、金融制度の自由化が遅れれば、人民元の国際化にとって間違いなく向かい風になる。将来的に考えて、貯蓄通貨としての人民元の役割を強化するならば、中国は資本収支を自由化し、資本輸出能力を高める必要がある。それはかなり長期的な課題となろう。