R-2024-060
1.水みんフラ卓越人材の活動概要 2.水みんフラ卓越人材プロフィール 3.水みんフラ卓越人材にせまる一問一答 4.ヒアリングを通じてわかったこと |
1.水みんフラ卓越人材の活動概要
「新潟の水辺を考える会」は1987年10月に発足し、遊び心と真面目さを融合させながら、家族ぐるみの水辺ウォッチングから活動を開始した。その後、川の清掃活動や環境改善に関わる行動の重要性が増す中、1994年に提案活動型の「汗をかく会」へと変貌を遂げ、さらに地域社会に対する責任と持続的な活動を求め、2002年に「NPO法人新潟水辺の会」(以下「新潟水辺の会」)として法人化された。
かつて「日本一汚い川」とも称された通船川の清掃や舟下りイベント、信濃川上流でのサケの稚魚放流などの活動を続けてきた。また、ヨーロッパ視察を通じて、住民が安全に川に近づけるような堤防設計を行政に提言している。同会の活動を通じ、水辺に設置されていたフェンスが撤去され、階段護岸や舟着場が設置されるなど、水辺と人との距離が近づいていった。また、「ワイズユース」の実践として、ハス取りやヨシ刈りを行うことで、人々と水辺の安全で豊かな関係性を取り戻すことにも寄与している。
2022年に、「新潟水辺の会」は35周年を迎えた。国際湿地都市として認定された新潟市内にある16の里潟の魅力を広く発信するため、「里潟ガイド」の育成に注力している。これにより地域の自然資源を再発見する多彩な種まきプロジェクトを通し、新潟の水辺の価値を次世代が持続的に楽しみ、守る架け橋としての役割を果たすことを目指している。
同会顧問で前代表世話人、新潟大学名誉教授の大熊孝さんに話を聞いた。
2.水みんフラ卓越人材プロフィール
1942年、台北生まれ。1974年、東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。工学博士。新潟大学名誉教授。専門は河川工学および土木史。川を通して自然と人間の関係がどうあるべきかを研究し、自然環境の保護とともに、治水・利水の在り方を住民の立場を尊重しながら考察している。NPO法人「新潟水辺の会」顧問・前代表世話人。水郷水都全国会議の開催や、自主映画『阿賀に生きる』の制作などにも取り組んでいる。主な著書に『利根川治水の変遷と水害』(東京大学出版会、1981年)、『洪水と治水の河川史』(平凡社、1988年)、『技術にも自治がある―治水技術の伝統と近代』(農山漁村文化協会、2004年)、『洪水と水害をとらえなおす―自然観の転換と川との共生』(農山漁村文化協会、2020年)、『社会的共通資本としての川』(編著、東京大学出版会、2010年)、『川辺の民主主義』(共著、ロシナンテ社編、アットワークス、2008年)などがある。
3.水みんフラ卓越人材にせまる一問一答
(1)取り組みの内容とそれをはじめたきっかけを教えてください。うまくいってうれしかったことを教えてください。
「設立のきっかけは、映画『柳川堀割物語』の上映会。水辺ウォッチングを通じて川の状況を観察したり、シンポジウムを開催したりしました」
「新潟の水辺を考える会」の設立のきっかけは、1987年10月15日に開催した宮崎駿製作・高畑勲監督による映画『柳川堀割物語』の上映会だった。かつて新潟市内には多くの堀が存在していたが、1964年の国民体育大会(国体)開催を機に、市内を縦横に走っていた堀は次々と埋め立てられ、「水都新潟」の風景は大きく変貌した。堀の水質汚染や自動車の普及がその背景にあり、埋め立てに反対の声はほとんど聞かれなかった。
そのような状況の中、新潟市内のコンサルタント会社で湿地の環境保全を研究していた相楽治さん(後に「新潟水辺の会」第2代代表世話人)が「柳川堀割物語」の上映会を提案し、私も協力した。上映会には400人もの人々が集まり、ドブ川再生という困難な活動を楽しみながら、水の文化や技を掘り起こし、人づくりやまちづくりに結びつけている柳川市民の情熱に感銘を受けた。上映会後の打ち上げには約20人が参加し、「この熱気を引き継ぐべきだ」「新潟の川を再生し、映画のように楽しみたい」といった声が上がり、「新潟の水辺を考える会」が誕生した。上映会に関わっていた有志と相談し、私が代表を引き受けることになった。
活動の初期は、水辺ウォッチングを通じて川の状況を観察し、現状を学んだ。欧州での近自然河川工法視察ツアーの報告も兼ねて、「水辺シンポジウム」を新潟大学工学部講堂で開催。C.W.ニコル氏、森清和氏、桜井善雄先生らの講演が行われ、400人を超える参加者が集まり、会場は希望に溢れた雰囲気に包まれた。1995年からは住民グループとも連携し、観光船の運航など地域振興を視野に入れた整備計画を提言し、ごみ拾いを続けた。シンポジウムも企画した。
(2)最初にどんな困難に直面したかを教えてください。
「1990年代は全国的に市民活動が盛り上がりを見せていた時代であり、多くの仲間の共感を得て活動は順調に進みました」
1990年代は全国的に市民活動が盛り上がりを見せていた時代であり、多くの仲間の共感を得て活動は順調に進んだ。特に、新潟市内で深刻な水質汚染が進んでいた通船川や、ラムサール条約に登録された佐潟(さかた)の保全活動に注力してきた。
通船川は、昭和30年代までは越後平野の米を新潟港に運ぶ「川の道」として栄えていた。大正時代半ばまでは外輪船の旅客蒸気船が、以降はスクリュー船が行き交っていた。しかし、1964年の新潟地震で堤防が決壊したことを契機に、水位をマイナス1.6メートルに保つよう改修され、阿賀野川の津島屋排水機場で流入量を調整し、信濃川に繋がる山ノ下排水機場で水をくみ上げる現在の形に変わった。これにより水害の危険性は減少したものの、閉鎖水域となったことで水質が悪化し、1969年には全国で最も汚れた川のひとつとなった。
この状況を改善するため、環境講座を開講し、地域住民の意識が高まるとともに、川の環境改善に向けた取り組みが広がっていった。こうして川の再生に尽力し、現在では川遊びやカヌーの練習ができる川へと生まれ変わった。
2006年からは信濃川・千曲川にサケの稚魚放流を開始し、4年後には長野県上田市でサケの遡上が確認された。これは、平安時代から全国有数のサケの産地として知られていた千曲川(信濃川上流)に、約半世紀ぶりにサケが戻った瞬間であった。2018年からはこれまでの活動を事業型に発展させた「鳥屋野潟がってんプロジェクト」を推進。「水辺をただきれいにするだけではいけない。活用して残さないと」との思いから、子どもから大人までが水辺に興味を持てるようなイベントを次々と考案し、鳥屋野潟の新しい可能性を日々探っている。
(3)ご自身の活動をやめようと思ったことはありますか?それはなぜですか?
「やめたいと思ったことはありません」
(4)そのときに踏みとどまった理由はなんですか?
(なし)
(5)活動してきて個人にとってよかったことは何ですか?
「教職や学会の枠を超え、交友関係が圧倒的に広がり、大学だけでは経験できない貴重な体験をさせてもらいました」
市民をはじめとする多くの人々から直接意見を聞く機会があり、大いに学びとなった。「新潟水辺の会」のメンバーの中で、研究者は私一人だった。後に第2代代表世話人となる相楽治さんはコンサルタントで、彼の会社の若手スタッフが事務局を担ってくれた。メンバーとともに視察を重ね、市民向けワークショップやさまざまな提言を行うことができた。
「新潟水辺の会」の活動を通じて、教職や学会の枠を超え、交友関係が圧倒的に広がり、大学だけでは経験できない貴重な体験をさせてもらった。その一例が、水郷水都全国会議への参加である。1989年、柳川市で開催された第5回水郷水都全国会議大会(「水循環の回復と地域の活性化-柳川掘割から水を考える-」)に参加し、市民への情報発信の重要性を実感した。この参加をきっかけに、「新潟でもこのような大会を開催したい」と強く思い、仲間を説得して共に取り組むよう呼びかけた結果、1992年に第8回水郷水都全国会議新潟大会(水-流れが交わり、文化が生まれる-)を開催し、全国から約700人を集めることができた。
また、新潟水俣病の患者の日常を描いたドキュメンタリー映画『阿賀に生きる』(監督:佐藤真)の製作委員会の代表も務めた。この映画の製作資金は、趣旨に賛同した約1400人からの寄付金3000万円と1000万円の借金によって賄われた。1989年から3年間、阿賀野川流域に民家を借りてスタッフ7人が自炊しながら共同生活を送り、新潟水俣病や川と関わり合う人々の生き方を追った。古代からの経験の蓄積を通じて、健全な川の姿や命のつながりを体得してきた人々の様子は、映画を通して川や自然との共生の大切さを教えてくれた。
多くの力が結集することで、少しずつ社会を変えることも可能だと実感した。新潟市の通船川や栗ノ木川の整備では、地域の市民組織と行政が意見を交わしながら事業を進める体制が整い、水と親しむための階段型護岸の実現や、一部のフェンス撤去も達成された。このような活動を通じて、現場で事業を進める技術者たちの意識も大きく変わったと感じている。しかし一方で、川に流すべき水量(基本高水)を定め、それに基づいてダムや堤防の計画を立てるという手法や考え方自体は依然として変わっていない。これらの計画は過大であり、実現には多数のダム建設や巨大な堤防が必要となり、環境的にも財政的にも不可能である。さらに、地球温暖化に伴い局地的・集中的豪雨の発生頻度が高まっていることを考えると、こうした計画だけでは深刻な水害を防ぐことは難しい。
(6)ご自身の活動を若い人にすすめますか? それはなぜですか?
「ぜひすすめたい。若い人たちも自分の人生における「つとめ」を見つけ、より充実した生き方を選んでほしい」
ぜひすすめたい。ただし、私の研究室の卒業生に限って言えば、水辺の会に多くの支援をしてくれたものの、まだ中核を担う人材は現れていない。仕事とボランティアについて改めて考える必要があると思う。
忙しい日々の仕事をこなしている中で、なぜボランティア活動をするのか。その問いに対しては、記念シンポジウムで哲学者・内山節氏からヒントを得た。内山氏は、「仕事」には「かせぎ」と「つとめ」の2種類があると述べた。「かせぎ」は日々の糧を得るための個人の利益を目的とした仕事であり、「つとめ」は人や社会のためになる仕事で、人間は「つとめ」を通じて誇りや生きがいという充足感を得るのだという。
かつては、「仕事」をすれば、それが「かせぎ」であり「つとめ」でもあった。しかし、市場経済社会の中でその2つは分離し、意識しなければ「かせぎ」だけに偏ってしまう。誇りある人生を送るためには、「かせぎ」だけでなく「つとめ」も必要である。生計を立てるための仕事が増えた結果、自分が社会にどう役立っているかを見失い、ストレスを感じる人が増えている。そんな中で、ボランティア活動は生きがいを見つけられる世界として注目されるようになってきている。
さらに、「つとめ」における責任の問題も考えるべきだ。「かせぎ」の世界では、ミスは許されず、個人が責任を負わなくてはならない。一方で、「つとめ」では集団で責任を共有し、結果として社会に役立てばよい。ミスは公開し、補い合いながら互いに寛容であるべきだ。
「時間」についても内山氏は重要な指摘をしている。彼は、時間には「直線的時間」と「関係的時間(循環的時間)」があると述べた。「かせぎ」の世界では24時間体制のビジネスが求められ、直線的な時間に縛られる。しかし、「つとめ」の世界では、地域に根ざした関係的時間や自然と共にある循環的時間の中で、記憶を刻みながら子孫に継承していくことが大切である。
これらの視点を持つことで、若い人たちも自分の人生における「つとめ」を見つけ、より充実した生き方を選んでほしいと願っている。
(7)活動をともにする仲間や新たな卓越人材をうむために必要なことはなんですか?
「地域の水辺のすばらしさ、価値を人々が共有することです」
私と、2015年から第2代代表世話人を務めている相楽治さんには、学生運動に参加していたという共通点がある。黎明期の「新潟水辺の会」のメンバーにも学生運動に関わった人が少なくなかった。若い頃に日本の未来を案じ、世の中を変えなければならないと考えた経験が、活動の原点となっていたのだろう。
一方、現在の代表世話人である長谷川隆さんの世代は、学生運動を経験していない。彼らに共通するのは、地域活動と水辺の会の活動をバランスよく楽しんでいることである。地域を愛し、祭りの実行委員を務めるなど活発に活動する一方で、水辺の会ではさまざまな河川の視察やシンポジウムの主催・参加を通じて、地域を超えたつながりを楽しんでいる。自治会活動にはテーマがないが、水辺の活動には明確なテーマがあるため、地域を超えて同じ関心を持つ人々が繋がりやすい。そして、地域愛を持つことで活動が継続されるというバランスが保たれている。
長谷川さんは、幼少期に家の前の川でホタルが飛び交う光景が当たり前だったという。しかし、農薬などの影響でホタルは姿を消した。その失われた自然の記憶が、現在の水辺の活動につながっていると感じている。一方、今の子どもたちは変わってしまった風景しか知らず、川で遊ぶ姿が見られなくなっている。川に柵が設けられ、自然と私たちが分離してしまっているのが現状だ。その根本的な理由は、「水辺の良さ」が国民全体で共有されていないからではないだろうか。
新潟がラムサール条約の「湿地都市」として認められたことは、自然の価値を再認識する重要な要素である。地元の人々が自然の意義に気づき、その価値を見出すことが必要だ。
「新潟水辺の会」では、インタープリターの育成やワイズユースの伝達を通じて、地域の価値を伝え、ボトムアップを目指している。
また、文学を通じて頭の中で水辺について考え直すことも重要だ。英国では、アーサー・ランサムの著作などを通じて多くの国民が水辺の価値を認識し、レジャーとして楽しむ文化が根付いている。その点、斎藤惇夫氏の『河童のユウタの冒険』(福音館書店)は、北国の湖(福島潟)に住む河童のユウタが信濃川の源流まで冒険に出かけ、最終的に福島潟に帰ってくる物語である。この本を通じて、子どもたちが水辺に親しみを持つようになれば、水辺の環境も変わるだろう。
(8)生まれ変わったら何をしてみたいですか?
「同じことをしているでしょう」
おそらく生まれ変わっても同じことをしているだろう。あるいは現在の活動の続きをするだろう。2022年11月10日、新潟市はラムサール条約湿地都市として認証を受けた。これは、「1996年ラムサールシンポジウム in 新潟」や「2008年 KODOMO ラムサール国際湿地交流 in にいがた」において「新潟水辺の会」が主催・協力してきた活動の波及効果の1つと感じている。この認証をきっかけに、「認証都市にふさわしい水辺とは何か」という問いに応える政策や活動が、川辺や潟辺で始まることを期待している。「潟」の存在は、新潟市という都市の個性でありこの地域の宝だ。潟は全国に誇れる地域特有の文化を生み出し続けている。市民意識が変わることで、新たな提言が生まれ、それが実際の活動へと広がっていくことを願っている。
4.ヒアリングを通じてわかったこと
(1)きっかけ
「柳川堀割物語」の上映会。ドブ川再生という困難な活動を楽しみながら、水の文化や技を掘り起こし、人づくりやまちづくりに結びつけている柳川市民の情熱に感銘を受けた。「この熱気を引き継ぐべきだ」「新潟の川を再生し、映画のように楽しみたい」といった声が上がり、「新潟の水辺を考える会」が誕生した。
(2)個人のモチベーション
・市民をはじめとする多くの人々から直接意見を聞く機会があり、大いに学びとなったし、活動を通じて交友関係が圧倒的に広がり、大学だけでは経験できない貴重な体験ができた。多くの力が結集することで、少しずつ社会を変えることも可能だと実感した。
(3)卓越人材に必要なこと
・人生における「つとめ」を見つけ、より充実した生き方を選ぶ。誇りある人生を送るためには、「かせぎ」だけでなく「つとめ」も必要である。
・自然の意義に気づき、その価値を見出す。「新潟水辺の会」では、インタープリターの育成やワイズユースの伝達を通じて、地域の価値を伝え、ボトムアップを目指している。
水みんフラ卓越人材を探せ
現在まで日本の安全な水の安定供給を支え、水の災禍を低減させているのは、上下水道、農業水利施設、治水施設などの構造物(いわゆるインフラ)、自然生態系や人為的な生態系、それらに関わる人や組織といった要素が組み合わさったシステム全体=水に関する社会共通基盤(水みんフラ)だ。しかし、人口減少、土地利用変化、財源不足、担い手不足、災害の頻発化などのため、持続可能な維持管理が困難になっている。
都市のみならず地方においても、地域に合った「水みんフラ」の再構築による、持続可能な維持管理、突発的な事故や災害への対応体制の整備が急務で、それには「水みんフラ」に関する総合知を習得した卓越人材(水みんフラ卓越人材)が不可欠だ。
本研究ではこうした水みんフラ卓越人材がどのように育成され、彼らを中心とした組織がどのように生まれ、ノウハウがどのように共有されているかをヒアリング、レビューにまとめ、その後、調査研究・集約し、卓越した水みんフラ人材を体系的に育成する方策を提言する予定である。