R-2022-134
1.安倍晋三回顧録 2.よって立つ考え方はリフレ派 3.社会保障・税一体改革に関与しなかった安倍氏 4.2度の消費増税延期 5.財務省との関係悪化 6.アベノミクスの総括 7.政と官との在り方 |
1.安倍晋三回顧録
安倍晋三元総理が読売新聞社の橋本五郎氏と尾山宏氏のインタビューに応じた『安倍晋三 回顧録』が中央公論新社から発刊された。インタビューは2020年10月から21年10月まで計18回、36時間にわたり行われたものである。
安倍氏自ら内政・外交を赤裸々に語っており、その考え方を知る上で大変興味深い内容である。とりわけアベノミクスの考え方、消費増税を巡っての財務省との駆け引きなど経済政策に関する部分については、安倍氏の本音が詳細に記されており、今後のわが国の経済・財政政策、さらには政と官のあり方にとって参考になることが多いので、以下私見を述べてみたい。なお、太字の部分は書物からの引用である。
2.よって立つ考え方はリフレ派
安倍氏は、アベノミクスなど自らの経済政策を、リフレ派の考えに沿ったものと明言している。
いわゆる「リフレ派」といわれた人たちがしっかり理論武装し、私の主張をバックアップしてくれました。(p.384)
デフレには、…(中略)…基本的には貨幣現象の問題です。社会に出回る貨幣が多いとインフレになり、少なければデフレになります。そう考えれば、長年の金融政策が間違っていたのは明らかでしょう。(p.111)
そしてこの考え方が、MMT(現代貨幣理論)につながり、安倍氏の財政政策の基本となっていく。
さまざまなコロナ対策のために国債を発行しても、孫や子に借金を回しているわけではありません。日本銀行が国債を全部買っているのです。日本銀行は国の子会社のような存在ですから、問題ないのです。信用が高いことが条件ですけどね。(p.53)
日本銀行を国の子会社になぞらえる発言は波紋を呼んだ。
国債発行によって起こりうる懸念として、ハイパーインフレや円の暴落が言われますが、現実に両方とも起こっていないでしょう。インフレどころか、日本はなおデフレ圧力に苦しんでいるんですよ。財務省の説明は破綻しているのです。もし行き過ぎたインフレの可能性が高まれば、直ちに緊縮財政をおこなえばいいわけです。(p.53)
このような、正統派の経済学とは異なるポピュリズム的なリフレ派の考え方に立ち、さらにMMTという実証されていない考え方に立つことが、安倍氏と財務省との関係を考える上での出発点となる。
リフレ派の考え方は、「デフレこそがわが国経済長期低迷の原因」という前提に立つ。そして「デフレは貨幣現象なので、大胆な金融緩和によってマネーを供給すれば、インフレ期待が高まりデフレからの脱却が可能になる」という政策につながり、とりわけ白川日銀総裁時の金融政策への批判につながっていく。90年代後半には、ポール・クルーグマンやバーナンキという米国の高名な学者も日銀批判を繰り返し、このことがわが国のリフレ派に味方した。もっとも両氏は、リーマンショック後にはこのような批判をしたことへの反省の弁を述べている[i]。
一方わが国の正統派経済学者やエコノミストは、「デフレはあくまで結果」であるとし[ii]、物価の上がらない最大原因は賃金の低迷やその背景にある生産性の低迷や日本特有の労働慣行にあるとする。さらに日本停滞の要因は、急速な高齢化に伴う労働人口の減少などの構造的な問題もあるので、生産性の向上につながる構造改革をはじめとする供給側の改革が必要だ、金融緩和策や公共投資拡大などの財政政策は、時間を稼ぐだけの効果しか持たない、と考える[iii]。
このことは、日銀がリフレ派の考え方に沿って、10年に及ぶ金融緩和を続けてきたにもかかわらず経済のデフレ体質は変わらず経済停滞が続いていることからも立証されているといえよう。
問題を複雑にしたのは、リフレ派が、金融緩和によってもデフレから脱却できない原因を、財政政策、とりわけ2014年4月からの消費増税のせいにしたことである。リフレ派の代表的な論客で内閣官房参与を務めてきた浜田宏一イェール大学名誉教授が、シムズ理論をもとに物価を決めるのは財政政策だ、と考え方を修正したことがその代表例である。
消費増税延期を巡る駆け引きはさらに激しくなっていく。
14年に見送りを決めたのは、8%に増税したことによる景気の落ち込みが酷過ぎたからです。財務省は、8%に引き上げてもすぐに景気は回復する、と説明していたけれど、…(中略)…2四半期連続でマイナス成長でした。(p.310)
この点については、年単位での経済トレンドを見ると、消費はこれまでのトレンドに戻っており、この判断の検証が必要だろう。ちなみに安倍政権は、消費税8%への増税時に3%の消費増税による影響を緩和するため5兆円規模の経済対策を行った[iv]。
3.社会保障・税一体改革に関与しなかった安倍氏
消費増税は、増税だけが注目されるが、小泉内閣の後半以降長い年月をかけて議論された社会保障・税一体改革の一環として行われたものである。安倍氏は2005年10月から第3次小泉改造内閣に内閣官房長官として初入閣したのだが、福田政権、麻生政権時にはこのプロセスに直接かかわっていない。このことが消費増税への距離、さらには嫌悪につながっていると思われる。
(社会保障・税)一体改革には慎重でした。デフレ下に加え、震災の影響を受けているときに消費税を上げるべきではない。一体改革は、税金を上げて社会保障に回すのではなく、むしろ借金の返済に充てるのが狙いでした。政治的に見ても、…(中略)…民主党が掲げた増税と真っ向から勝負すべきではないかと思っていました。
社会保障と税の一体改革は、財務省が描いたものです。当時は永田町が財務省一色でしたね。(p.94)
社会保障・税一体改革は、小泉内閣時代の議論を踏まえて、福田内閣時代の社会保障国民会議、麻生内閣時代の「中期プログラム」に基づく法律改正によって民主党に引き継がれ、最終的に2012年法律として成立したもので、民主党が主導したというのは正確ではなく、「民主党が掲げた増税」という発言はこの点への理解が不足しているといえよう。自民党野党時の2010年7月の参議院選挙では自民党(谷垣貞一総裁)は「消費税は当面10%とする」という内容の公約をしていた[v]。
自公政権から民主党政権への交代時に社会保障・税一体改革の橋渡し(推進も)をしたのは財務省であり、財務省主導に見えるのはやむを得ないかもしれないが。
4.2度の消費増税延期
その上で、2014年11月、衆議院解散とセットで消費増税10%への一度目の延期(18か月)を決めた。
法律通りの実施を求める財務省との関係は極限までに悪化した。
この時財務官僚は、麻生さんによる説得という手段に加えて、谷垣貞一幹事長を担いで安倍政権批判を展開し、私を引きずり下ろそうと画策したのです。…(中略)…彼らは省益のためなら政権を倒すことも辞さない。(p.323)
そして参議院選挙前の2016年6月1日、「新しい判断」として2度目の先送りを行う。
二度目の増税延期を決める前の15年に…(中略)…軽減税率の導入を巡って、財務省はまた策を弄しました。」「官邸内では、14年の財務省の策略は夏に始まっていたので「夏の陣」、冬に決着した15年の軽減税率を巡る運動を「冬の陣」と呼んで、財務省は怖い、という話をしていました。(p.323)
増税を延期するためにはどうすればいいか、悩んだのです。…(中略)…予算編成を担う財務省の力は強力です。彼らは、自分たちの意向に従わない政権を本気で倒しに来ますから。…(中略)…増税論者を黙らせるためには、解散に打って出るしかないと思ったわけです。(p.148~149)
財務省と、党の財政再建派議員がタッグを組んで、「安倍おろし」を仕掛けることを警戒していたから、増税先送りの判断は、必ず選挙とセットだったのです。そうでなければ、倒されていたかもしれません。(p.310)
与党が、法律で決められていた増税の延期を掲げて選挙を戦うという手法は、これまでにない手法である。選挙は与党の圧勝に終わる。
一方財務省にも多くの反省点がある。とりわけ筆者は、社会保障・税一体改革のスキームで、5%の消費税率引き上げにもかかわらず税率引き上げ後の社会保障充実に充てる部分は1%分となった点を指摘したい。安倍氏はこの点を大いに問題視し、10%への引上げにあたって使途を変更し、社会保障充実分を多くした。財務省の悪知恵が見破られたともいえよう。
5.財務省との関係悪化
このように見てくると、財務省との軋轢が生じたのは以下の理由であろう。安倍氏は、リフレ派の考え方に立ち、異次元の金融緩和によってデフレ脱却を図ろうとしたのだがうまくいかず、リフレ派の「転向」とともに財政政策に経済停滞の原因や解決を求めていった。一方財務省は、社会保障・税一体改革について法律通りの増税を迫り、関係者へのさまざまな根回し・働きかけを行った。
彼らは、税収の増減を気にしているだけで、実体経済を考えていません。
国が滅びても、財政規律が保たれてさえいれば、満足なのです。(p.312~313)
一方この対立は、森友問題へも波及する。
(財務省は森友側との土地取引が深刻な問題とわかっていたこと、自分のところに土地取引の公証記録など資料は届けられなかったことなどを理由にあげ)森友学園の国有地売却問題は、私の足を掬うための財務省の策略の可能性がゼロではない。(p.313)
ここまで一国の総理が省庁に対して疑心暗鬼になるものなのか、恐ろしくなる。
6.アベノミクスの総括
ではアベノミクスの評価はどうなのか。
2012年12⽉に打ち出された、⼤胆な⾦融緩和(2%の物価安定目標)と機動的な財政出動、⺠間活⼒を引き出す成⻑戦略の 「3本の⽮」によるアベノミクスは、わが国の経済・社会の景⾊を⼤きく変化させた。円安による企業業績の回復や株高、雇用の改善など、デフレに苦しむわが国経済を一転させたことは事実であり評価すべきだ。また外交面で、わが国のプレゼンスを大きくしたことについても、評価したい。
一方で、想定したトリクルダウンは生じず、国民の実質賃金は停滞し、資産や所得の二極化が進んだ。また規制緩和や労働慣行の柔軟化、少子化への対応などの構造改革は進まず、わが国経済の潜在経済成長率は1%未満と低成長を続けている。低成長の背景には、国民の将来不安からくる慎重な消費行動があり、これを是正するような政策にはほとんど手がついていない。
さらには長期にわたる金融緩和の弊害も目立ってきている。とりわけ国債発行をしても国民の資産になるのだから大丈夫だというMMTの考え方、それを事実上支えた日銀の無制限な国債買い入れ、プライマリーバランス黒字化時期の先延ばしによる先進国最悪の財政赤字などが、今日わが国経済に大きなリスクとなっている。その原因は、アベノミクス道半ばだからではなく、アベノミクスのよって立つリフレ派の考え方が間違っていたからではないか。
もっとも、全世代型社会保障への転換や働き方改革は、評価すべきであろう。
ハト派と保守派の政策を同時にやればいいと思っていました。
全世代型社会保障や働き方改革は、ハト派的な政策の頂点だった。(p.270)
考えようによっては、財務省にとって安倍政権ほど素晴らしい政権はないともいえます。結局、消費税を二度増税し、経済成長で税収も増やしたわけですから。(p.313)
最後のフレーズ、筆者がアベノミクスを「意図せざるリベラル政策」と評価する所以である。(第80回交差点)
7.政と官との在り方
回想録の内容は、政と官のあり方という、わが国の長年にわたる課題に大きな問題を投げかけた。
消費増税の2度にわたる延期の決定は、総理の経済問題の最高諮問機関である経済財政諮問会議や政府税制調査会の十分な議論を経ず官邸主導、総理主導で行われた。有識者や各省の専門的な知識を動員しての議論の結果ではなく、結論ありきという意思決定であった。背景となるのが異端ともいえるリフレ派の考え方であり、それを正当化したのが衆議院・参議院選挙であった[vi]。逆に言えば、安倍氏は、国民の多くが敬遠する消費増税の延期をうまく利用して長期政権を維持したといえよう(その政治スキルは賞賛に値する)。
経済思想の異なる首相に直面した際、専門性を持つ省庁・官僚は、どういう行動をとるべきか、このことを強く考えさせられる回想録である。そしてこの答えは、安倍晋三氏やアベノミクスの評価とともに、時間をかけて歴史の中で検証されるべきであろう。
[i] 森田長太郎 「経済学はどのように世界を歪めたのか」p.233 ダイアモンド社 2019年
[ii] 吉川洋「デフレーション」p.193 日本経済新聞出版社 2013年
[iii] 例えば河野龍太郎著「成長の臨界」p.189 慶應義塾大学出版会 2022年
なおリフレ派の本質を分析した本として、早川英男著「金融政策の『誤解』」慶應義塾大学出版会 2016年 がある。
[iv] 拙著「日本の消費税 社会保障・税一体改革の経緯と重要資料」p.933 中央経済社 2022年
[v] 同上 p.119
[vi] この点については、同 第8章 第2次安倍内閣 で詳細に経緯を記述している。