R-2024-054
1.水みんフラ卓越人材の活動概要 2.水みんフラ卓越人材プロフィール 3.水みんフラ卓越人材にせまる一問一答 4.ヒアリングを通じてわかったこと |
1.水みんフラ卓越人材の活動概要
静岡県三島市はかつて富士山の湧き水が豊富で、美しい水辺空間が広がっていた。しかし、上流域の開発や森林の放置により湧き水が減少し、水辺環境が危機に瀕していた。この状況に対処するため、1992年に市内の8団体が結集し、「グラウンドワーク三島実行委員会」が結成された。市民・行政・企業が協力し、環境改善を目指す「グラウンドワーク」の手法を採用した。
「グラウンドワーク」は、1980年代に英国で始まった環境改善活動で、市民が行政や企業と協力して地域の環境を改善する手法であり、グラウンドワーク三島は日本で最初にこの手法を導入し、三島市で水辺自然環境の再生と改善に取り組んでいる。代表的な活動としては、源兵衛川をはじめとする水辺空間の再生や、三島梅花藻(バイカモ)等の自然環境の保全などがあり、70のプロジェクトが地域住民やボランティアの協力の下に進行している。
グラウンドワーク三島の活動は、市民主体でありながら、行政と企業も巻き込む形で進められ、これらの活動を通じて、地域の自然環境再生とパートナーシップの有効性を全国に広めており、全国的に注目される市民団体となっている。
2.水みんフラ卓越人材プロフィール
1950年生まれ。東京農工大学農学部農業生産工学科を卒業後、静岡県庁に入庁、農業基盤整備事業の計画実施を担当。1992年に設立されたグラウンドワーク三島の中心的・先導的な役割を担い、現在も専務 理事として組織を強力に牽引している。2007年に農学博士号を取得、2008年からは、都留文科大学文学部社会学科教授となり、2016年からは特任教授。その他にグラウンドワーク三島を含む4つのNPO法人の事務局長職を歴任、地域づくりや水辺再生を先導する「まちづくりプロデューサー・仕掛け屋」として国内外で活躍している。
3.水みんフラ卓越人材にせまる一問一答
(1)取り組みをはじめたきっかけを教えてください。
「一番大切なふるさと、三島の川の姿を認識した。」
私が38歳の時、静岡県庁に在職し、農業関係の仕事を担当していました。三島から県庁に通っていましたが、仕事や子育てに一生懸命でした。県庁でも重要な仕事を任せられて、日々、充実した時間を過ごしていました。
しかし、この年代になると、部局内において将来的に私が部長にまでなれるかもしれないみたいな噂も流れ、そんな将来の現実的な姿が垣間見えてきて、想定内の人生って面白くないなあ、自分の人生の現在と未来の姿を比較して、どちらが自分らしい生き方なのかを迷い、不惑の時期を過ごしていました。
そんな時に、三島市内の川沿いにあるスナックで飲んでいて、夜中、川沿いを歩いた時、川の中に「生首」が点々と置いてあるのが見えました。実際は、白いビニール袋にゴミを入れ、川の中に投げ捨てられたゴミ袋が、月明かりに照らされて、「生首」のように見えたものでした。
当時の冬場の三島の川には、水がほとんど流れていなかったし、川の中を覗き込んだら、悪臭で臭く、川底にはヘドロが溜まり、沢山のゴミが捨てられていました。この当時、残念なことに、三島市民は、ゴミを平気で川に捨てていました。このような三島市内の川が、汚れた醜い状況が30年近くも続いていたのです。
私は、この醜い汚れた川の現状を目の当たりにして、大きな衝撃を受けました。「今まで自分はふるさと・三島を忘れ、何をしてきたんだろう」と自問自答しました。自分が子どもの頃に遊んでいた、思い出の大切な川は汚れ、貴重な湧水地は、埋められているのに、県庁において、これからは環境の時代などと偉そうなことを言っている中で、三島の悲劇的な現実とのギャップに驚き、人として一番大切にしなければならないふるさと・三島の危機的な現実を、恥ずかしいことに、まったく認識していませんでした。
その汚れた現実の三島の川の姿を認識した時に、今までの自分の生き方を反省しました。また、もう一人の自分の社会的な役割について、真剣に考えるようになりました。この衝撃的な事実が、私が三島での市民活動を始めるきっかけになりました。ふるさと・三島の汚れた水辺環境の再生・復活に取り組む、強い覚悟と決意が醸成・胎動した時期でした。
写真 当時の源兵衛川の様子(渡辺豊博氏提供)
(2)最初にどんな困難に直面したかを教えてください。
「主体的・自主的に行動するしか、解決策は見出せないと覚悟を決めた」
汚れた水辺の再生は、今まで、三島市や市会議員などが解決することができなかった三島の課題であり、水を活かしたまちづくりは、三島の宿願でもありました。地域を構成する、市民・行政・企業が、バラバラに活動していて、一体化した取り組みができなかったために、解決策は見つかりませんでした。特に、三島市民は、三島はもう終わりだと、水辺の再生を諦め始めていました。
驚くべきことに、この頃、三島を代表する湧水河川である源兵衛川を暗渠(あんきょ)化して、川を隠してしまい、上部を駐車場に利用する事業の検討が始まっていました。
このままでは、ふるさとの川が壊されてしまうとの危機意識から、県庁職員としての行政マンの経験値と知識値を活かし、三島市内の各界各層の人々との話し合いや聞き取りをスタートさせて「情報収集」を行いました。
「何故、水の都・三島がこんなに汚れた醜い街になってしまったのか、その根本的な原因はどこにあるのか、誰が何をしたらこの問題を解決できるのか、新たな市民団体のやり方を構築できるのか」などについて、様々な人々と赤提灯を舞台にした聞き取り調査をスタートさせました。
危機意識を前提として、いきなり感情的な市民運動に取り組むのではなくて、まずは、三島の現状を的確に把握するために徹底的な情報収集を行い、その情報をもとにして分野別に分析・評価し、問題点を明確化して解決策を見出していきました。
また、三島商工会議所や三島青年会議所所属の先輩・後輩との度重なる飲み会を通して、事実関係の把握と検証を行いました。「何故、三島の川がこんなに汚れた川になってしまったのか、解決策はあるのか」などを聞きました。すると、総じて、地下水の減少が原因だ、これは広域的な水の問題であり、国や県でなくては解決できない、三島だけで解決することはできないと消極的な返事が返ってきました。聞き取りに7ヶ月くらいの期間をかけ、100人以上もの多様な人々と会って、考え方を聞いて回りました。
分かったことは、水辺の再生を自分事として、誰も解決のために活動・取り組んでいない、他人の悪口や批判、諦め、愚痴、世間話、見て見ぬふり、評論家的な総論ばかりでした。汚れた川の現場に出向き、ゴミ拾いなどの具体的な再生活動を起こした人は誰もいませんでした。
これでは、問題はどんどん深刻化して、解決に努力する人がいないわけだからいつまでも解決しない、何もしなければ、源兵衛川はコンクリートの暗渠で埋められてしまう切迫した事実を前提として、主体的・自主的に行動するしか、解決策は見出せないと覚悟を決め、一人でのゴミ拾いと「グラウンドワーク三島」の設立への取り組みを始めました。
当時の三島には、いくつかの市民団体による、環境再生活動への取り組みは、3年か5年経過すると団体を解散してしまっていました。よって、今までとは違う、新たな市民団体の結成を目指しました。とにかく、市民団体としての明確な活動理念や長期的な視点に立った戦略などを、しっかりと立案して物事を進めないと、具体的な環境再生は実現できません。
また並行して、私たちの活動の理念や事業に賛同してもらえる支援者を増やし、問題意識を共有する市民団体・関係団体が連携した中立的・専門的な組織をつくり、それらの問題点を調整・仲介する役割を担う中間支援組織がないと、地域課題の解決は難しいと考えました。
そのために、市民・行政・企業との間で、新たな役割分担を構築して、相互の得意技を発揮できるパートナーシップ型の「グラウンドワーク三島」を創り上げるべく、様々な市民団体の設立と連携・協働関係を積み重ねていきました。
まずは、水に特化した専門的な市民団体である三島ゆうすい会を設立し、パートナーシップの核となる組織として、先導役を担いました。その後、三島ほたるの会、源兵衛川を愛する会、桜川を愛する会を設立し、あわせて、まちづくりを進めていた三島商工会議所や三島青年会議所などの関係団体も取り込み、20団体が連携・協働した「グラウンドワーク三島」を1992年9月に設立しました。
(3)うまくいってうれしかったことを教えてください。
やはり資金の支援者を得たのが一番大きいです。組織を成長させていくために必要なことは、地域からの信用と安定的な資金確保、多様なマネジメントによるアプローチです。
また、持続性を担保するためには、短期・中期・長期的な目標に向かって、組織をどのように運営管理していくのかの「アクションプラン・行動計画」を「グラウンドワーク三島」の組織づくりと並行して立案しました。
汚れてしまった三島の川を、どのように再生・復活させるのか、解決のための処方箋・再生計画・企画書といえるものが、多くの支援者を確保するためには絶対に必要になります。
その企画書をいつもカバンの中に20冊くらい入れて、飲み屋で、まちづくりに関心がありそうな人たちがいたら、カバンから出し、説明できるようにしていました。このままでは三島がダメになってしまうとの切迫した危機感から、自らの行動によって、汚れた源兵衛川が清流に蘇ったことが何よりうれしかったことです。
写真 活動の様子(渡辺豊博氏提供)
(4)ご自身の活動をやめようと思ったことはありますか?それはなぜですか?
(5)そのときに踏みとどまった理由はなんですか?
「追い詰められた方が発想も出てくる」(よって(5)の回答はなし)
うちの妻からは、「あなたは寝つきが早い。大変だと大騒ぎしていても、30秒後には寝てます、よく平気で寝てられますね」と言われます(笑)。しかし、寝ていても何かが気になってすぐに起きてしまいます。ですが、頭を整理して、またすぐに寝ることができます。精神的に追い詰められた方が、頭が鮮明化して、すごいアイデアが出できます。難題を解決できる多様な方策を考え出せました。
だから、活動をやめようと思ったことは、今まで一度もありません。様々なプレッシャーや不安・心配・悩み事が、逆に私のパワーになります。
(6)活動してきて個人にとってよかったことは何ですか?
「人は人のために生きてこそ人なり」
個人が成長していくためには、多様なキャリアの蓄積を乗り越えていかなくてはなりません。私は社会的・公益的な活動に35年間従事してきていますが、その信念は「人は人のために生きてこそ人なり」です。人は自分や家族のために生きていくことは当然のことです。結果、お金を儲け、社会的な地位が高くなることを生きる目標にする、何の問題もありません。
しかし、人の役に立つ仕事をする、行政や企業だけでは、対応できない弱者対策や人間的サービスの提供など、社会の隙間の問題に対して「無償」を前提として取り組む、それこそが、人として、生きている意義ではないかと私は考えています。その強い意志が、今の自分の活動の原点であり、行動規範です。
私は今まで、地方公務員・大学教授のキャリアを蓄積しながら、NPOのリーダーとして社会的・公益的な活動に関わり、いろいろな経験知、専門知を学び、それらを社会へと還元してきました。やはり、先導役・調整役としての責任も増しています。今後、いつまでこの活動を継続していけるのか不安もあります。なので、今の活動を続けながら、次のステージに向けた恒久的な仕組みづくりや次世代の人材育成、安定的な資金循環システムの構築などの課題をクリアする必要があります。
汚れた源兵衛川の水辺再生を通して「グラウンドワーク三島」の活動を推進しようと決意した38歳の時の覚悟は立派だったと自己評価しています。しかし、仕事とボランティア活動の両立が続いたことで、家族と一緒に旅行に行ったことも少なく、子どもたちにも寂しい思いをさせました。ですが、世の中、最後は自分ひとりです。人生の中で、社会のために何をして、何を残せたかが問われます。
(7)ご自身の活動を若い人にすすめますか? それはなぜですか?
「若い時はボランティアなんかやるな」
私はいつも自分の学生に対して「若い時はボランティア活動なんかなるべくやるな」と言ってきています。現実社会の中でキャリアを積みなさい、資格を取りなさいと伝えています。
それから、結婚して、ちゃんと家族を守りなさい、子どもが安心して生活できるように生活基盤を安定させなさい、子どもが成長して自立できるようになったら、自分の第2の人生・セカンドステージの生き方を考えなさいと教えてきました。私の場合、その節目となる新たなスタートを切ったのが38歳の時でした。
(8)活動をともにする仲間や新たな卓越人材をうむために必要なことはなんですか?
「ボランティアのマネジメントなど、専門的な知識を勉強しないといけない」
ボランティアを続けていくためには、いろいろな困難を我慢しなきゃいけません。ボランティアの世界では、自分の今までの社会的な立場・地位は関係ありません。基本形は、人間同士による「横の関係」です。
しかし、現実社会は、中央集権的な「縦の関係」です。その縦と横が前提の社会において、横の関係が前提のボランティアの世界も存在することを、事前に理解しておかないと、ボランティアの世界で活動していくことは難しくなります。
その前提を十分に認識せず、縦の社会の上からの指示・対応をしてしまうと、人がついてこなくなります、会費も集まらなくなり、組織も資金難になり、持続が困難になります。
今後も、社会的な活動を続けていきたいなら、ボランティアの基本理念・マネジメントなどの専門的知識を十分に学習しないと、活動は発展せず、継続は難しくなります。例えば、大会社の元社長が、ボランティア仲間と飲み始めた時、仲間にビールを持ってきなさいと指示したら大問題になり、組織に亀裂が入ります。立教セカンドステージ大学で14年間教えてきていますが、学生さんの元職は、行政書士、大企業の社員、議員などです。そこで色々とトレーニングして、彼らは、多様な市民団体を設立しましたが、長続きしませんでした。指示しちゃダメだと伝えても、どこかのタイミングで出てしまいます。だんだん人が来なくなる、会費も集まらなくなる、団体が継続できなくなってしまうわけです。
活動をともにする仲間づくり、難しいですね。活動を始めようとする頃は共有意識も強く、信頼関係もあり、物事が円滑に進みます。しかし、時間経過とともに、考え方に違いが生まれ、不信感や悪口が出できます。この小さな意識のずれが、組織の一体化を阻みます。解決策は、小さい組織をつくり、自分たちでできる範囲で無理の無い、楽しめる活動を見出し、続けていくことかと思います。そこに長く集える人たちが良き仲間ですから、相互の意見を尊重しながら、ゆっくりとともに歩んでいくことが大切だと思います。
卓越人材をうむために必要なこと、これはさらにハードルが高いですね。社会的問題をともに解決しようと集まった人たちの中で、経営的センスや卓越した発想力、人を引き付ける人間力、宴会に強い肝力・胃力を持った人など、他人と比較して飛びぬけた能力・潜在力を秘めた人を見つけるしかないと思います。
その優秀性をひたすら褒め上げ、その気にさせて、リーダーに皆で育てていくしかありません。悪口や批判をしたら駄目です。失敗したら批判せず、問題点を助言すること。ゆえに、卓越人材は自分自身も研鑽と経験を蓄積していかなければなりませんが、基本は周辺の仲間が育て上げていくものです。
(9)生まれ変わったら何をしてみたいですか?
生まれ変わっても、ボランティアの活動はしたいです。人のための仕事、社会を良くするための仕事をやり続けたいです。特に、海外に出かけての国際的な仕事をやりたいです。英語をさらに勉強して、生まれ変わったら、世界中を旅して、それぞれの国で困っている問題に対して、お役に立てる仕事をしたいです。ふるさと三島が、世界一の「水の都」になるための革新的なまちづくりの仕掛けを、先導してやってみたいです。
4.ヒアリングを通じてわかったこと
(1)きっかけ
自身の故郷の水環境悪化への危機感とそれにもとづく行動
(2)個人のモチベーション
「人は人のために生きてこそ人なり」という社会に対する責任感
(3)卓越人材に必要なこと
活動をマネジメントする方法などの本質的・専門的な知識
水みんフラ卓越人材を探せ
現在まで日本の安全な水の安定供給を支え、水の災禍を低減させているのは、上下水道、農業水利施設、治水施設などの構造物(いわゆるインフラ)、自然生態系や人為的な生態系、それらに関わる人や組織といった要素が組み合わさったシステム全体=水に関する社会共通基盤(水みんフラ)だ。しかし、人口減少、土地利用変化、財源不足、担い手不足、災害の頻発化などのため、持続可能な維持管理が困難になっている。
都市のみならず地方においても、地域に合った「水みんフラ」の再構築による、持続可能な維持管理、突発的な事故や災害への対応体制の整備が急務で、それには「水みんフラ」に関する総合知を習得した卓越人材(水みんフラ卓越人材)が不可欠だ。
本研究ではこうした水みんフラ卓越人材がどのように育成され、彼らを中心とした組織がどのように生まれ、ノウハウがどのように共有されているかをヒアリング、レビューにまとめ、その後、調査研究・集約し、卓越した水みんフラ人材を体系的に育成する方策を提言する予定である。