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財政再建は何故進まないのか?再考
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財政再建は何故進まないのか?再考

September 20, 2022

R-2022-043

はじめに
財政破綻とは
我慢比べ(チキンゲーム)?
何で辻褄を合わせるのか?
国民は知っている?
ではどうするか?

はじめに

財政の悪化が止まらない。コロナ禍に加えて、ロシアのウクライナ侵攻に始まるエネルギー価格の高騰、更に東アジアの安全保障リスクが高まっている。財政支出への拡大圧力が高まる中、財源論は封印されたまま国の借金だけが積み重なってきた。国・地方を合わせた一般政府の債務は対GDP(国内総生産)比で250%超と先進国の中でも最悪の水準にある。「いまの危機」に加えて、我が国は社会の高齢化・人口減少という「これからの危機」に直面している。社会の高齢化に伴い年金・医療など社会保障給付費は現在の130兆円余りから2040年度には約190兆円まで増えるとの試算もある。財政は社会保障や(防災を含む)社会インフラ、教育・安全保障などを支える社会・経済の「基盤」である。今後、財政が行き詰るようなことになれば、社会保障や災害復興、あるいは国家安全保障も持続可能ではない。矢野財務省事務次官は我が国の財政は「タイタニック号が氷山に向かって突進している」状態と評し、「このままでは国家財政は破綻する」とした(矢野(2021))。しかし、財政に対する国民の理解が進んでいるとは言い難い。近年では「自国通貨を発行する政府は財政破綻しない」という「MMT(現代貨幣理論)」のような主張が政治家などの間で流布している。「デフレから脱却すれば、自ずと財政は健全化する」、「財政赤字は問題ではない」を含めてそれが正しいかどうかではなく、「分かり易い」、あるいは「耳障り良い」主張がまかり通ってきた。

財政破綻とは

そもそも、国が破綻するという意味が一般には伝わり難い。(財政破綻の定義とは何かという無用な「神学論争」にもなりかねない。)無論、国は民間企業のように清算されて消滅することはない。ここでいう破綻とは政府が資金のやり繰りに窮する、つまり、国債の借り替えや新規発行ができなくなることを指す。あるいは市場に国債を消化するにも市場(投資家等)から高い金利を要求され、利払い費が急増する。例えば、ギリシャや韓国の場合、国際通貨基金(IMF)等の管理下に置かれ、財政再建のために短期間での支出削減目標を達成することが求められた。このような状況では財政健全化の選択肢も限られる。国の財政が行き詰まれば、これまで当たり前と思ってきた多くの行政サービスが提供されなくなる。我が国では多くの地方自治体が国からの補助金に依存してきた。国が財政破綻すれば、こうした補助金は大きくカットされるだろう。自治体の財政が行き詰まる連鎖破綻になる。結果、自治体は道路・橋梁等のインフラの管理や整備、公立学校・病院などの施設の運営ができなくなる。ゴミの収集も滞るだろうし、水道管が破裂しても迅速な修理はできなくなる。災害でインフラが毀損しても復旧することも困難だ。2008年に財政破綻した夕張市では医療機関の機能が縮小するなど行政サービスが低下した他、税や公共料金が引き上げられた。この状態が全国で発生することになる。「当たり前」の日常が失われるのである。とはいえ、多くの国民にとって財政の破綻は「自分事」になり難い。あるいは「知らぬが仏」を決め込んでいるところもあるのかもしれない。

 本稿では財政再建への政治的・国民的合意が取り難い理由について、経済学の理論に即して考えていく。

我慢比べ(チキンゲーム)?

増税や歳出削減などを伴う財政再建は既得権益を有する者からの反発を受けやすい。ここで既得権益というと公共事業であれば建設業界、農業ならば農業協同組合、産業政策ならば経済団体など「特定」の利益団体を思い浮かべるかもしれない。しかし、一般国民自身もまた既得権益者といえる。国の予算の多くは医療・介護、年金を含む社会保障費が占めてきた。その受益者は国民自身である。無論、日本医師会など提供側の政治的影響力は否めないが、社会保障を抑えるとなれば、国民自身(特に高齢者)も反発するだろう。国民は納税者でもある。納税者としての国民の間では消費税の増税に際しても抵抗があった。財政再建は一部の利益団体のみならず、広く国民の既得権益に関わるのである。財政の健全化という「総論」には賛成しても、自身の権益に関わる健全化の「各論」には反対ということが横行し易い。

 図表1:チキンゲーム

出所:筆者作成
我が国の政策決定過程は基本的には現場からのボトムアップであり、合意形成を重んじてきた。このとき、各権益者にとって最良なのは自身の権益を放棄することなく、他の誰かが財政再建に協力することであろう。仮に財政赤字が1兆円削減できたとして、その源泉が公共事業費でも、社会保障の給付でも(当然、経済効果は違うとして)財政を健全化できているのに変わりはない。社会保障など公共サービスの提供が持続可能になる、消費税などのこれ以上の増税がないという意味で全ての権益者が受益する。このように自身の権益を諦めて財政再建に協力するのは「公共財」的な性格を有する。各人に提供(=協力)の判断を委ねることは「ただ乗り(フリーライダー)」を誘発する。換言すれば自分の権益に固執しながら他が妥協するのを待つ「我慢比べ」(チキンゲーム)に等しい。「高齢化に対応するには社会保障の充実が必要」、「地方の雇用を守るには公共事業は不可欠」といった具合に、誰も自身の権益は譲ろうとはしないだろう。もっとも、誰も妥協しないまま、財政が破綻すれば(行き詰まれば)、全てのステークホルダーにとって不利益になる。[1] 

何で辻褄を合わせるのか?

そもそも財政が行き詰ったとして赤字の増減をいずれの政策変数で調整するかが明らかではない。実際、財政赤字の帳尻を合わせる「蛇口」が多い。①歳出カットならば、削減対象の公共サービス(社会保障、公共事業、教育?)、あるいは一律削減、②増税ならば、増税対象となる税目(消費税、法人税、所得税、タバコ税?)について明示的な「財政ルール」があるわけでも、社会的な合意があるわけでもない。このため、財政危機になっても、給付等自身の権益は守られ、他の誰かが(補助金のカットや増税といった形で)負担するなど「自分だけは大丈夫」といった各々が都合の良いシナリオを期待し易くなる。財政が持続可能なとき、(実質でみた)政府の債務残高は長期に渡るプライマリーバランス(=純負担=税収―支出)の現在価値に一致する。つまり、現在の債務は長期に渡る純負担によって返済されなければならない。しかし、ここで問われるのは誰が負担を負うかである。例えば、個人(ステークホルダー)Aと個人Bがいたとき、長期の財政収支は

       現在の債務残高=個人Aの負担+個人Bの純負担

となる。個人Aは自身の負担は少なく、多くは個人Bに割り当てられると考えるかもしれない。他方、個人Bも同様だ。結果として

 現在の債務負担>個人Aが期待する自身の純負担+個人Bが期待する自身の純負担

この場合、各人の期待に沿う限り、財政が持続可能になっていない。加えて、財政再建時の負担を過小評価することから、前述のチキンゲームが更に悪化しかねない。

国民は知っている?

前述の「現代貨幣論(MMT)」に限らず、「ヘリコプター・マネー論やシムズ理論(財政の物価理論)など「痛みを伴う財政再建は必要ない」という「奇策」が我が国では流布してきた。国民や政治家がこうした理論を正しいと考えているというよりは、財政再建をしないで済むことから「都合が良い」のが理由のように思われる。とはいえ、彼等は財政の将来について本当に無知ないし無関心なのだろうか?ただし、無知・無関心は、不合理を必ずしも意味しない。人間の情報処理・分析能力には限界がある。「自分事」になっていない財政について考えるよりも、(仕事や家庭など)他のことを優先するかもしれない。その場合、合理的な判断として敢えて知らないままでいることはある。もしくは、デフレや低金利が続き、国債が安定的に消化されている(国が資金調達に窮していない)のを「正常」な状態として、リスクを認知しない(よって敢えてリスクを回避しようとしない)「正常性バイアス」が人々の間で広まっているのかもしれない。[2]あるいは財政のリスクを理解した上で財政再建に拒絶反応を示しているのかもしれない。実際、若年世代の多くは「年金は貰えないもの」と思っているとされるが、これは(財政が支える)社会保障の破綻を示唆している。 

行動経済学の「プロスペクト理論」によれば、伝統的な経済学の効用関数に代わる「価値関数」は参照点で屈折しており、利益局面では(限界効用の逓減にあたる)凹関数になるが、損失局面では凸関数の形状となる。このとき、人々の行動は参照点(現状)を境に利益を得るときと損失を被るときでは異なる行動パターンを示す。結論から言えば利得局面において人々は不確定な利益よりも確実な利益を好むというリスク回避的に振る舞う一方、損失局面において人々は損失を確定させるより、状況が改善する可能性に賭けるリスク愛好的な選択をし易い。例えば、現状(=参照点)より株価が上がるとき、更なる上昇に期待して当該株を持ち続けるより、売却して利益を確保しようとする。他方、株価が下落しているとき、売却して損失を確定するより、現状を回復する可能性を期待して売り惜しみをする。

ここで財政再建は増税や歳出削減などを強いるという意味で「損失の分配」ともいえる。しかし、プロスペクト理論によれば、(財政再建をしていない)現状=参照点からもみれば人々に「損失局面」を強く意識させることになる。ここで財政再建は損失の確定にあたる。他方、これを先延ばしすれば、経済が奇跡的に回復して現状=参照点が維持可能になるか、財政破綻に陥って大きな損失を被るかの「賭け」となる。このとき人々は財政再建より、財政破綻のリスクがあるにも関わらず、現状維持の可能性に賭ける意思決定をするかもしれない。所謂「ドーマー条件」にあたるが経済の成長率が継続的に国債の金利を上回れば、基礎的財政収支(プライマリーバランス)が一定程度赤字であっても国債残高の対GDP比は発散しない。財政の持続性も確保できる。成長率>金利が続くことにかけて、敢えて財政再建の努力を払わない(率先してプライマリーバランスを黒字化させない)のも「賭け」であろう。この場合、財政の長期試算を含めて客観的な情報(エビデンス)の提供だけでは問題は解決しない。正しい情報が正しい判断を促すわけではない[3]

図表2:プロスペクト理論



出所:筆者作成

ではどうするか?

ではどうするか?財政危機のとき、どの財政変数(消費税か給付か補助金か)が優先的に調整されるかを予め「ルール化」しておくことが一案だ。事前の財政再建をプランAとすれば、「プランB」にあたるが、震災など被災後の都市の復興を予め定める「事前復興計画」にも似る。無論、計画通りに実現することはないだろうが、議論のベンチマークになる。各ステークホルダーが都合の良い解釈で財政の先送り(チキンゲーム)を続ける誘因を抑えることが期待できる。もう一つは財政再建を損失の分配ではなく、利益の配分と位置付けるような提示手法を考える必要があろう。このままでは財政は危ういが、財政再建を進めることで社会保障の持続性を確保できる、あるいは消費税の更なる増税は避けられるといった「フレーム」を提示することだ。

参考文献

・翁邦雄(2022)「人の心に働きかける経済政策」(岩波新書)

・牧野邦昭(2018)「経済学者たちの日米開戦―秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く」(新潮選書)

・矢野康治(2021)「このままでは国家財政は破綻する」「文藝春秋」202111月号


[1] 長期的には「共有地の悲劇」に似た状況を招きかねない。ここで「共有地の悲劇」とは所有権が設定されておらず、不特定多数がアクセス可能な資源を過剰に利用する状況を指し、漁場での乱獲環境問題が例に挙げられる。財政制度等審議会建議(2018年)は「現在の世代が「共有地」のように財政資源に安易に依存し、それを自分たちのために費消してしまえば、将来の世代はそのツケを負わされ、 財政資源は枯渇してしまう」と警鐘を鳴らしている。現世代が我慢比べを続けるなら最終的な不利益を被るのは将来世代ということだ。

[2] 災害時に逃げ遅れるのも、災害という非常事態に対する認識が遅れる「正常性バイアス」によることが知られている。翁(2022)は人々がデフレを「正常」と認知していることから、「インフレ2%」を目標に掲げる日本銀行による異次元の金融緩和にも関わらず、インフレ期待が醸成され難いとする。

[3] 関連して牧野(2018)は当時の陸軍が日米の経済・戦力差を十分に理解していたにも関わらず、開戦という無謀な決断に至った理由についてプロスペクト理論を用いて説明している。開戦前を参照点としたとき、米国の石油禁輸措置等により、このままでいけば大日本帝国はジリ貧になるという損失局面への意識が開戦という賭けを選択させたという。

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