R-2021-010
米中貿易摩擦とコロナ禍をきっかけに世界経済およびそれを支えるグローバルのシステムが大きくリセットされようとしている。振り返れば、冷戦終結後の30年間、世界経済は市場経済化によって急速に成長した。とくに、経済成長は新たな技術革新とイノベーションとともに、社会に大きな変革をもたらしている。もっとも重要なイノベーションは産業のデジタル化を軸とするindustry 4.0、すなわち、第4次産業革命であり、それはさらなる飛躍的な経済発展を引き起こそうとしている。問題は制度面の進化が急激なイノベーションに比べ大幅に立ち遅れていることである。
グローバル社会の制度面の進化とは、社会と技術の進化にともなって、そのルール化とガバナンスを強化すると同時に、国際協調を促していくことである。しかし、グローバル社会の現実をみれば、世界のリーダー役を務めてきたアメリカの経済力は近年、相対的に弱体化し、それに対して、中国などの新興国家が急速に台頭している。このままいけば、国際社会では、リーダーが不在となり、これからの時代は古代中国のように群雄割拠になっていく可能性が高い。
一部の経済学者には前世紀末からいわれていることだが、21世紀はアジアの世紀である。この予言が正しければ、次の課題はだれが21世紀のリーダーになるかである。現実問題として、中国の経済力は急速に強くなり、遅くとも2030年までに中国の名目GDPはアメリカを追い抜いて世界一になるといわれている。
中国の経済規模がほんとうに2030年までに世界一になれるかについてはもう少し精査する必要があるが、仮に中国が世界の最強国になったところで、民主主義の国々が専制政治の中国を世界のリーダーとして受け入れるのだろうか。
中国はグローバル社会のリーダーを目指しているかもしれないが、上で述べたように、国際社会は徐々に群雄割拠の様相を呈しつつある。そのなかで、一部の政治学者は目下の米中対立を「米中新冷戦」と定義している。新冷戦というのはかつての米ソ冷戦を念頭に考えられたものであろう。確かに目下の米中関係とかつての米ソ関係は比較すると似ているところもあるが、決定的な違いも見受けられる。それは、かつての米ソ関係は全面的に対決していたのに対して、目下の米中関係は、外交と安全保障については対決しているが、経済の相互依存はかつてないほど緊密になっているということである。しかもその相互依存関係はますます強化されるであろう。
中国は世界の工場になっているが、技術と基幹部品はアメリカおよびアメリカの同盟国に依存している。一方、アメリカは日用品を中心に中国に完全に依存している。アメリカは中国以外に日用品の新しい供給先を見つけることは現実的に不可能である。したがって、米中は激しく対立しているが、完全にデカップリング(分断)することができない。
米オバマ政権(2009-2017年)はすでに中国との貿易不均衡を問題視し、中国の脅威に対する警戒を強化していた。オバマ政権は中国の脅威を封じ込めるために、日本を中心に環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の結成を考案した。TPPは従来の自由貿易協定(FTA)との違いとして、より公正な国際市場を構築するため、加盟国が自国の国有企業を民営企業と同等に取り扱わなければならないとし、特許などの知的財産権を侵害せず、直接投資の外国企業に技術供与と技術移転を強要しないことなどが加盟の条件になっている。この規定をみてもわかるように、TPPは明らかに中国を封じ込める包囲網といわれても仕方がない。
中国はTPPに加盟できないが、その包囲網を突破するために、習近平政権は「一帯一路」イニシアティブを考案し、独自でユーラシア大陸を跨る広域経済圏の構築を決断した。その中身をみると、中国は海のシルクロードと陸のシルクロードと呼ばれる物流網を整備し、沿線主要国に対して物流インフラ整備に資金面を中心に援助している。「一帯一路」沿線の主要国はほとんどが途上国と新興国である。これらの国々は経済成長が遅れているため、外貨が不足しており、中国の経済援助を概ね歓迎する姿勢である。むろん、そのなかには中国から巨額の外貨を借り入れて、採算の合わない港湾などのインフラ施設を建設することで重い負債を抱えてしまう国もある。それについて、中国が仕掛けた債務の罠との批判があるのも事実である。
ここで、明らかにしておかなければならないのは、習近平政権が推進する「一帯一路」イニシアティブが広域経済圏をほんとうに構築できるかどうかである。米トランプ政権(2017-2021年)による突然のTPP離脱宣言は、実は、習近平政権にとって多少胸をなでおろす出来事となった。すなわち、日米を中心に考えられていた中国包囲網が空中分解する形になったからである。
むろん、それはアメリカ政府が中国に対する警戒を弱めたことを意味しない。事実として、2018年からトランプ政権は米中貿易不均衡を理由に、中国に対する経済制裁を断行し、米中対立が一気に激化していった。
そこでの中国の戦略は、米国の経済制裁に屈することをせず、応酬しながら、東アジア域内の経済連携を強化するリーダーシップを取ることであった。中国の比較優位はなんといっても、世界の工場でありながら、世界の市場になっていることである。2020年、中国の自動車販売台数は2500万台に上り、世界一だった。中国には、「遠い親戚よりも近隣が大事だ」という言い伝えがある。アメリカは中国にとって遠い親戚ではない。一方、アジア諸国が中国の近隣であることは間違いない。だからこそアジア諸国との経済連携は中国にとってなによりも重要な戦略となった。
2020年、日中を中心に地域的な包括連携協定(RCEP)が合意に至り、習近平政権が描いた東アジア域内経済協力の形が見えてきた。RCEPにはアメリカが参加していないため、世界二番目の経済規模を有する中国は間違いなく主導権を握ることができると、少なくとも北京では考えられているはずである。
ただし、アメリカが抜けたTPPは完全に消滅したわけではない。残った日本とオーストラリアなどの11か国はTPPを発効させた。TPP11(CPTPP)の11か国の経済規模は小さいが、包括的かつ先進的な経済連携協定のベンチマークになっている。
中国は国有企業の完全な民営化については考えてはいないが、実はTPPのあり方と役割については絶えず関心を払ってきた。2020年11月、習近平国家主席はASEAN(東南アジア諸国連合)諸国の首脳とのオンライン会談でTPP加入への関心を示した。それから10か月経って、2021年9月、中国政府はTPP参加を正式に申請した。中国のTPP参加申請はTPP11か国にとってだけでなく、アメリカを含む世界主要国にとってサプライズだったに違いない。なぜならば、中国はTPP参加の条件をクリアできないのに、参加を申請したからである。ここで問われるのは中国の真意である。
習近平政権がTPP参加申請の意図を明らかにしていないなか、ここでの過剰な解読は決して得策ではないが、次の二点を指摘しておきたい。
一つは、RCEPを合意にこぎつけた習近平政権は、CPTPPに参加できれば、東アジア域内の経済協力において完全に主導権を取ることができるということである。バイデン政権は目下CPTPPに参加することを表明していないため、中国にとって今は主導権を握るチャンスとなる。
もう一つは、台湾は国家ではないため、国際機関などに正会員として加入できないということである。一方で、CPTPPは国際機関ではない。台湾が参加を申請した場合、メンバーの11か国がそれを承認すれば、台湾はCPTPPに参加することができてしまう。これは台湾経済外交の勝利となる半面、北京にとっては外交上の失点となる。台湾のCPTPP参加を阻止するもっとも有効な方法は、中国がCPTPP参加を申請することである。そうすれば、CPTPP11か国は中華人民共和国の参加を拒否し、台湾の参加を承認することが難しくなる。むろん、現状では、台湾の参加を拒否し、中華人民共和国の参加を承認する可能性も高くはない。仮に、中華人民共和国と台湾のいずれの参加も承認された場合でも、北京は怒るはずである。結論的にいえば、もっとも可能性として高いのは、中華人民共和国と台湾のいずれの参加も承認されないということになるだろう。
冷戦が終結してから、すでに30年も経過した。今、世界では、グローバル社会が大きくリセットされようとしており、それをめぐる駆け引きが始まったばかりである。経済連携を強化する必要性が認識されている一方、各国は自らの国益を最大化しようとしているため、新たな対立が生まれ、しかも、ますます激化する可能性が高くなっている。グローバル社会でのアメリカの国力が弱まり、かつてほど強いリーダーシップが取れなくなった。しかし、グローバル社会の既存のルールも機能しなくなっている。こうしたなかで、中国はいきなりグローバル社会のリーダーになるのではなく、東アジア域内において影響力を強めようとしている。それは中国の経済力が強化された結果ともいえるものである。問題は国際社会でいかに相互信頼関係を築くかにある。
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