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 政府・日銀アコードの見直しに向けて ―「3本の矢」を再考する―
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 政府・日銀アコードの見直しに向けて ―「3本の矢」を再考する―

November 4, 2022

R-2022-068

崩壊したリフレ論者の論理
賃金上昇と物価上昇の関係
「3本の矢」は全部が揃うことが重要
アコード見直しの議論を始めよう

崩壊したリフレ論者の論理

日銀の黒田総裁は、最近の記者会見などで「賃金の上昇を伴う形で物価目標を安定的・持続的に実現するため、金融緩和を継続する」という発言を繰り返している。つまり、円安等で消費者物価の上昇率が3%超になっても、なかなか賃金が上昇しない現状では、2%の物価上昇が持続するとは期待しにくいという認識である。筆者もこの判断自体は正しいと思うが、同時に指摘しなければならないのは、10年近く前に異次元緩和(QQE: Quantitative and Qualitative Monetary Easing)を開始した頃、同総裁が「物価が上がって賃金が上がらないことはあり得ない」と断言していたことだ。そして、この黒田総裁の「転向」は、リフレ論者の論理が崩壊していることを再確認するものだった。

と言うのも、QQE開始時点でリフレ論者と日本の経済学者・エコノミストの多数派だった反リフレ論者の最大の相違点は、デフレを日本経済長期低迷の「原因」だと考えるか、「結果」と捉えるかにあったからだ[1]。先に反リフレ派の考えをみておくと、バブル崩壊、日本企業の競争力喪失、金融危機などの様々な理由から賃金上昇が止まった。その結果がデフレ[2]だったという理解である。この「様々な理由」の何を強調するかは論者によって異なるだろうが、筆者自身は97~98年の金融危機が決定的に重要だったと考えている。金融危機によって日本を代表するような企業までが経営破綻の危機に瀕した結果、「企業は雇用を守る代わりに、労働組合は賃上げを要求しない」という暗黙の合意が成立したとみられるからである(ただし、雇用が守られたのは正社員だけであり、その反面で非正規雇用が急増した)[3]。これは、消費者物価の下落という意味でのデフレが始まったのが98年だったという事実とも整合的である。一方、経済変数の中で最も遅行的な物価が経済低迷の原因だとするのは、普通に考えれば自然ではない。そして、こうした不自然な考えの背後にあるのは、経済理論である。その一つは、「インフレもデフレも貨幣的な現象」だとして、デフレを金融政策の失敗に帰するリフレ派の見解だが、これにはマネーと物価の貨幣数量説的な関係が崩壊してずっと前から崩壊しているという事実に加え、金利のゼロ制約の重要性を十分認識していないという問題がある。

むしろ、より重要だったのは90年代から00年代にかけて世界のマクロ経済学界を席巻したニューケインジアン経済学の影響だろう。これはケインジアンと言いつつ、新古典派モデルに価格の粘着性(と独占的競争)だけを加えたものであり、基本的には深刻な不況や長期停滞は説明できない。また、「基調的なインフレ率を決めるのはインフレ期待」だという同義反復的な仕立てになっている。ただし、価格が粘着的なため持続的な物価下落=デフレは可能であり、これと金利のゼロ制約を組み合わせると、長期停滞(ないしデフレ・スパイラル)を説明することができる。つまりモデルの性質上、長期停滞はデフレを原因とする場合以外考えられないのである。貨幣数量説に近い岩田前副総裁と違って、黒田総裁はこちらに近い立場だったとみられる。

だが、リーマン・ショックから10年以上経過した今、ニューケインジアンの説得力は大きく後退した。銀行破綻や金融危機が深刻な経済恐慌を招き得ることを明らかにしたバーナンキ、ダイアモンド、ディビックの3氏が今年のノーベル経済学賞を受賞したのは、その象徴と言えよう[4]。デフレこそが諸悪の根源であり、リフレ策が「世界標準のマクロ経済学」(浜田宏一)だと言える時代はもう終わったのだ。

賃金上昇と物価上昇の関係

やや回り道が長くなったが、賃金と物価の関係に戻ろう。最近、この点で重要な研究成果を示したのは、ゴールドマンサックス証券のチーフエコノミスト馬場直彦氏だった[5]。同氏は、80年代からのデータを使って、賃金上昇率を①内閣府の企業アンケートに含まれる5年先の期待成長率、②失業率、③総合CPIインフレ率、④企業の経常利益増加率、⑥実質GDP成長率の5変数で回帰分析を行なった結果、所定内給与に関しては、「期待成長率が1%高まると賃金上昇率が0.61%高まる一方、インフレ率が1%高まっても賃金は0.16%しか増えない」という結果を得たのだ[6]。これでは、「足もとのインフレ率が高まっても、賃金は大きく上昇せず、したがって持続的な物価上昇は期待できない」と日銀が考えるのは無理もないと言えよう。

それにしても、この結果は筆者にとって大きなショックだった。と言うのも、筆者が日銀の現役時代にも、このタイプの計測は(主に春闘賃上げ率を予測するベア関数の形で)日常的に行なっていた。そして当時、インフレ率のパラメータは正確には記憶していないが0.16よりもずっと高かったと思うからだ。だが、筆者が調査統計局長としてこの種の関数を見たのは多分07年、今から15年前が最後だった。つまり、このパラメータの低下はQQE開始後の約10年間を含めてこの間に「賃金も価格も据え置き」というノルムが一段と強まってしまったことを意味する。

しかも、このレポートで馬場氏は持続的な賃上げには期待成長率の上昇が必要であることを強調していた。こういう見方は、従来から多くのエコノミストが展開していたが、筆者自身はやや懐疑的だった。世界には低成長なのに高インフレに悩む国も少なくないから、「インフレ率が高まるには高成長が必要」という命題は一般的にはなり立たないからだ。しかし、いったん「賃金も価格も据え置き」ノルムが成立してしまうと、強い経路依存性が働く結果、そこから抜け出すには成長期待が高まることが必要になるのかも知れない。そもそも、労働生産性が上昇するなら、物価は横這いでも賃金は上昇する筈だから「賃金も価格も据え置き」という状態は、経済がほぼゼロ成長という状態でのみ可能である。そう考えると、このノルムを打ち破るには、やはり成長期待を高めることが最も有効という結論になろう。

3本の矢」は全部が揃うことが重要

さて、今後日銀が採るべき金融政策についてだが、筆者は過度な円安の進行を食い止めるため、イールドカーブ・コントロール(YCC: Yield Curve Control)の運用を弾力化すべきだと考えている[7]。しかし、金融緩和政策そのものを転換すべきではないとの立場だ。確かに、エコノミストの間では「2%のインフレ目標は日本では高過ぎるので、来年以降も1%超のインフレが続くなら、QQEを終了すべき」との意見が少なくないのは事実だ。しかし、これはQQE直前の13年1月の政府・日銀共同声明[8](いわゆるアコード)で日銀が「金融緩和によって2%の物価安定目標をできるだけ早期に達成する」と約束していることに反する。この約束と最近までの黒田総裁の発言を併せて考えると、来年4月初めまでの黒田総裁の任期中に大きな政策転換が行なわれるとは想定しにくい。

実際、金融市場の関心も黒田総裁の任期中での政策転換より、次期総裁人事とその下での政策運営の方に集中しつつある。そして、それを考える上で最重要となるのは、前記アコードをどう見直すかだと思われる。そこで改めてアコードを読み直してみると、そこには①2%の物価目標をできるだけ早期に実現する(インフレ目標)だけでなく、②経済構造の変革により、日本経済の競争力・成長力を強化する(成長戦略)、③政策運営への信認を確保するため、持続可能な財政構造を確立する(財政健全化)という3つが謳われていることが分かる。これを読めば、①から③がアベノミクス「3本の矢」と対応することが容易に理解できる。「第2の矢」=機動的な財政出動と③の関係はやや微妙だが、これはデフレ脱却までは積極財政で景気回復を支援する一方、デフレが終われば財政健全化に向かう(だからこそ「機動性」が強調されている)と解釈すべきだろう。同時に、現実には日銀が2%目標に固執する一方で、 政府は求められた2つの目標をすっかり忘れてしまったということが痛感される。

さらに、この3つの目標は相互に独立ではなく、3つを同時に目指すことが重要だと考えられる。まず①と②については、先の馬場氏の研究結果を踏まえるなら、インフレ目標の達成には金融緩和だけでなく、成長戦略によって期待成長率を高める必要があることが分かる。一方、①と③については、インフレ目標が達成された後、金融政策が正常化に向かうには財政の持続可能性が確保されていることが前提となる[9]。つまり、アベノミクスの「3本の矢」は全部が揃うことが重要だったのだ。

アコード見直しの議論を始めよう

以上の検討を踏まえて筆者のアコード見直しに関する私案を述べれば、以下のようになる。まず第1に、13年1月のアコードに掲げた3つの目標を基本的には維持しつつも、3つの目標の相互依存関係を明記すべきである。そうすることで、日銀に金融緩和の継続を強いつつ、使途も定かでないままに予算規模だけを膨らませるといった政治の現状の眼に余るモラル・ハザードの抑制にも寄与すると考えられる。

第2は、インフレ目標の達成時期を「できるだけ早期に」ではなく、中長期目標とすることだ。賃金上昇率が期待成長率に大きく依存するなら、「賃金の上昇を伴った持続的な物価上昇」を金融緩和だけで実現することはできない。成長期待を高めるには時間が掛かるならば、インフレ目標は中長期目標とすべきである。その場合、来年度もインフレ率が1%台半ば以上(10月末公表の日銀「展望レポート」によれば、23年度のコアCPI上昇率の見通しは+1.6%)を維持するなら、安定的な2%が達成されなくても、マイナス金利やYCCといった副作用の大きい金融緩和手法を取りやめることができよう。一方で、インフレ目標を2%から引下げるべきとの意見に対しては、政策目標を安易に変更するのは望ましくないと考える[10]。中長期目標として2%を維持しつつ、成長戦略の実行を併せて目標実現を目指すべきだというのが、現時点での筆者の意見である。

もちろん、上記はあくまで筆者の私見である。だが、黒田総裁の任期があと半年を切った今、アコード見直しを本格的に議論すべき時期が来たと思う。また、このアコード見直しを政府と日銀だけの協議に任せるべきではない。金融政策だけでなく、財政政策や成長戦略にまで範囲が及ぶことを考えると、経済学者、エコノミスト、金融市場関係者などが幅広く、積極的な議論に参加することを強く期待したい。

[1] 6年前の拙著『金融政策の「誤解」』(慶應義塾大学出版会、2016年)で筆者は狭義の「リフレ派」を定義して批判を加えたが、同書では黒田総裁はリフレ派に含まれないとした。一方、本稿ではデフレを日本経済低迷と「原因」と考える(拙著で定義の「リフレ派の命題1」を認める)人達を広義の「リフレ論者」として扱う。この場合、黒田総裁もリフレ論者に含まれることになる。

[2] QQE開始前の約15年間がデフレ、その後は「デフレではなくなった」とされるが、その実態はインフレ率がゼロ%を僅かに下回る物価下落と、ゼロ%を僅かに上回る物価上昇である。むしろ、この全体を通じて賃金も物価も殆ど動かない「日本版賃金・物価スパイラル」(渡辺努『世界インフレの謎』、講談社現代新書、2022年)だったと捉えるべきだろう。
 なお、反リフレ論者の見解を代表する著作は、QQE直前に出版され、賃金を重視した吉川洋『デフレーション』(日本経済新聞出版社、2013年)である

[3] 前掲拙著第4章、より明示的には週刊エコノミスト(22年10月11日号)掲載のインタビュー記事「私の97年11月」を参照。なお、金融危機は97~98年だけでなく、01~02年の竹中ショック、08年のリーマン・ショック、さらには一昨年春のステイホーム期の企業活動停止時にも繰り返された。この結果、収益好調期にも投資や賃上げを抑制し、内部留保を貯め込んで危機に備えるという企業の行動様式(これを筆者は「学習された悲観主義」と呼んでいる)が定着することとなった。

[4] 2代前のFRB議長であったバーナンキ氏は、その出世作Ben S. Bernanke,“Non-monetary Effects of the Financial Crisis in the Propagation of the Great Depression”, American Economic Review, 1983において、大恐慌を説明する上では、フリードマン・シュワルツが強調したFRBによるマネー収縮以上に銀行破綻等に伴う信用収縮が重要だったことを実証的に明らかにした。バーナンキ氏は時にフリードマン・シュワルツに好意的な発言をしたり、FRB議長時代に量的緩和を行なったりしたことから、日本国内ではリフレ派に近い人物だとの誤解も少なくなかったが、ノーベル賞委員会は同氏の業績を正しく評価していた。これらの点に関しては、前掲拙著の第1章の2.をも参照。

[5] 馬場直彦「持続的な賃上げには、クレディブルな成長戦略が必要」、日本経済アナリスト、ゴールドマンサックス証券、22年2月

[6] 参考までに、この他のパラメータの推計値を掲げておくと、失業率は―0.60、実質GDP成長率は0.16、経常利益増加率は(所定内給与に関しては)統計的に有意でなかったと言う。

[7] この点に関しては、週刊東洋経済(22年4月16日号)に寄稿した拙稿「日本銀行は『長短金利操作』の運用を弾力化せよ」、および9月のブルームバーグのインタビュー記事日銀YCCが為替変動を増幅、目標年限の短期化が必要-早川元理事 - Bloombergなどを参照。

[8] わが国の経済・物価情勢と金融政策 (boj.or.jp)

[9] この点、経済学者からはインフレが実現すれば、政府債務/名目GDP比率は発散しないので心配ないとの意見を耳にすることが少なくない。これは、利上げで金利負担が増えても、政府債務はストックなのでゆっくりしか増加しない一方、フローの名目GDPは直ちに増加するという理解に基づくものだと思われる。しかし、金融の本質はロールオーバーにある(事実、企業が倒産するのはロールオーバーができなくなった時だ)。利上げでフローの赤字が拡大し国債発行額が急増すれば、ロールオーバーが困難になり、国債金利は急上昇する可能性がある(その場合、金融機関は巨額の損失を蒙り、金融システムの不安定化を招くリスクがある。この点は英国のトラス前政権の失敗に学ぶ必要がある)。先の経済学者達の考えは、金融の実態に疎い見方と言わざるを得ない。

[10] 現在、米国FRBは急ピッチの利上げに懸命だが、10月の本欄米国インフレ、高止まりのリスク | 研究プログラム | 東京財団政策研究所 (tkfd.or.jp)にも述べたように、インフレ率が高止まりを続けるリスクは無視できない。その場合、米国ではインフレ目標を現行の2%から3~4%に引上げるべきとの議論が高まるとみられるが、これに対しFRBは政策目標を安易に変更するのは望ましくない(インフレ期待が不安定化する)として強く反対するだろう。

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