R-2024-078
・過去25年を振り返るレビュー ・過去25年間の景気・物価動向の評価に関して |
過去25年を振り返るレビュー
昨年の12月19日、日銀は一部の市場関係者が予想していた追加利上げを見送る一方、過去25年間に及ぶ金融政策の効果と限界を振り返る「金融政策の多角的レビュー」という報告書を公表した。これは一昨年4月に、植田和男総裁の下で行われた最初の金融政策決定会合で、この間の金融政策運営に関して、「1年から1年半をかけて、多角的にレビューを行うこととした」と決定したことを受けたものである。その後1年半余り、日銀は内部の調査・分析結果を多数(46本!)の論文として公表するとともに、内外の学者を集めたコンファレンスやワークショップ、広範な企業を対象としたアンケート調査などを積み重ね、今回の浩瀚(こうかん)な報告書(200ページ余り!)を公刊した[1]。日本の政策当局が自らへの批判的評価を含む、これだけ包括的な研究成果を公表するのは極めてまれなケースだと思う。この一大プロジェクトを指揮された学者総裁・植田和男氏と多くの関係者に深い敬意を表したい。
同報告書の内容は、大きく3つの部分に分かれる。その第1の部分では過去25年間の経済・物価動向が回顧されるが、そこで最大の力点が置かれるのは、緩やかなデフレが発生し定着してしまった経緯の分析だ。報告書は、自然利子率が趨勢(すうせい)的に低下したため、金利のゼロ制約の下、金融政策で十分な景気刺激を行うことが困難となり、慢性的な需要不足に陥ったという点を指摘している。自然利子率低下の背景としては、まず1990年代後半から2000年代初頭の金融システム不安の下、企業が投資より財務の健全化を優先する姿勢を強めた結果、生産性向上のペースが鈍化し、潜在成長率の低迷につながったことが指摘される。また1990年代以降、世界的にはIT革命が進展したにもかかわらず、バブル崩壊後の調整に時間を要した日本ではITの活用が進まず、企業は海外生産シフトに注力した。さらに少子高齢化を背景に、家計が長寿化に備え貯蓄を増やしたことも、貯蓄超過→自然利子率低下につながった可能性が指摘される。バブル崩壊の影響に加えて、グローバル化、少子高齢化といった様々な構造変化を自然利子率の低下という統一した視点から分析したのが、本報告書の大きな特徴と言えよう[2]。
こうした自然利子率の低下に加え、新興国からの輸入の増加、IT関連等での技術革新、さらには円高の進行などが供給面から物価押し下げ要因として働いたと指摘する。この部分でもう一つ強調されるのは、緩やかな物価下落が継続したことが今度は原因となって、賃金・物価が上がらないことを前提とした慣行や考え方が社会に定着した点である。これは、東京大学の渡辺努教授が「ノルム」と呼んだものを本報告書では「慣行」と表現し直したものだろう。
報告書の第2の部分は、この間日銀が行った金融政策の効果と限界の分析だが、その中核は言うまでもなく、2013年以降黒田東彦総裁の下で進められた大規模金融緩和(いわゆる異次元緩和)の評価である。この点、報告書では政策効果の波及ルートを、①2%の物価安定目標への強いコミットメントによる予想インフレ率の押し上げと、②大規模な国債買い入れによる長期金利の押し下げとした上で、期待への働きかけに関しては、予想インフレ率に一定の影響はあったが、これを2%にアンカーするには至らなかったと評価した。一方、長期国債の大量買い入れは、マイナス金利政策やイールドカーブ・コントロールが導入された2016年以降、長期金利を1%程度押し下げる効果を持ったとした。この結果、日本経済は「デフレでない状態」に至ったが、当初に想定していたほどの効果は発揮し得なかったと総括した。
他方、大規模金融緩和の副作用に関しては、様々な分析を行った結果、①金融市場の機能度に関しては、国債市場の機能度にマイナスの影響があった、②金融仲介機能に関しては、貸出利鞘(りざや)の縮小等を通じて金融機関の収益を圧迫したが、金融仲介活動が阻害されたとまでは言えない、③経済の供給サイドへの影響については、理論的にはプラス、マイナス両面が考えられるが[3]、実証的にはいずれも明確な結論は得られなかったとした。結局、金融市場や金融機関収益などの面で一定の副作用はあったが、現時点においては、全体としてみれば、日本経済へのプラスの影響の方が大きかったというのが、大規模金融緩和に関する結論であった。
本報告書の第3の部分は、以上の分析を踏まえて、今後の金融政策運営への含意を述べるものだ。そこでは大規模金融緩和の「実験」[4]の結果、非伝統的な政策は効果を持ち得るが、定量的な効果は伝統的金利政策と比べ不確実だとした上で、今後非伝統的政策の必要が生じた場合にも、その時点の経済・物価・金融情勢に照らして、ベネフィットとコストを比較衡量することが重要と結論づけている。と同時に、非伝統的政策は金利政策の完全な代替手段になり得ないだけに、可能な限りゼロ金利制約に直面しないような政策運営が望ましいとして、2%の物価安定目標を維持することが適切という「糊代(のりしろ)」論を展開している。
これら本報告書の分析や評価について、筆者は常識的であり、おおむね妥当だと考えている。確かに、大規模緩和は日本経済にとってプラスの影響の方がマイナスの影響より大きかったとの評価については、自己正当化だとの批判も聞かれる。しかし、ここで注目すべきはこの評価を「現時点では」と限定していることだ。報告書が認めるように(そして筆者が後述するように)、大規模緩和の副作用は今後顕現化する可能性がある。だからこそ結論部分では、明示的ではないまでも、非伝統的な大規模緩和を再度行うことに消極的な姿勢が示されているのであろう。
過去25年間の景気・物価動向の評価に関して
以上のように、報告書の分析・記述内容はおおむね妥当だと思うが、筆者の眼からは不十分と感じられる部分も少なくない。そこで以下では、筆者が不十分だと感じた点を中心に、本報告書へのコメントを記していくこととしたい。
まずは、1997~98年の金融危機の扱いである。このレビューが過去25年間の経験を対象としているのは、新日銀法施行(1998年4月1日)後という意識も若干はあろうが、やはり日本が慢性デフレに陥ったのは金融危機以降だとの認識があるからだろう。その割には、金融危機の影響がやや過小評価されていると筆者には感じられた。確かに、報告書の15ページでは金融危機の影響が強調されているが、それはグローバル化や人口動態の影響と併記されたものだ。推計された自然利子率のグラフをみても、1997~98年に大きな段差はなく、むしろ1990年代前半のバブル崩壊後の低下が目立つ。しかし、金融危機を契機に日本経済には、①企業部門の貯蓄超過主体化、②春闘におけるベースアップの消失という2つの構造的変化が起こっており、これこそが日本経済の長期停滞、慢性デフレの根本的原因だと筆者は理解している。
金融危機時の出来事として誰もが思い出すのは山一、拓銀、長銀、日債銀といった大手金融機関の経営破綻だろう。ただ同時に忘れてはならないのは、金融機関の貸し渋り、貸し剥がしの影響を受けて日本を代表するような企業でも、資金繰り難から倒産の危機に陥ったケースが少なくなかったことだ。その大部分は、戦後混乱期以来の指名解雇に近い人員整理を行うことで倒産の危機から脱したが、この経験は多くの企業経営者にとって深刻なトラウマとなった。もう二度とこんな経験をしたくないとの思いから実行されたのは、①設備投資も人的資本への投資も絞り込むことで固定費を引き下げ、②非正規雇用を増やして人件費を抑制することだった。一方で、労働組合も正社員の雇用を守るため、ベースアップの停止を受け入れた。
わが国における物価研究の権威である東大の渡辺努教授は昨秋刊行の近著で、金融危機後のベースアップ消失を慢性デフレの出発点とし、これを「早川仮説」と呼んでいる[5]。筆者の名前を挙げていただいたのは大変光栄だが、ここでは、①筆者は金融危機を慢性デフレだけでなく、長期停滞の出発点と考えていること、②以前から筆者同様の考えを抱いていた経済学者、エコノミストの数は少なくないこと、の2点を指摘しておきたい。
もう一つの論点は、報告書の末尾に掲げられた有識者の講評の中で東大の福田慎一教授が提起された「低い予想インフレ率は経済・物価の低迷の原因なのか、結果なのか」というものだ。筆者はもっと直截(ちょくせつ)に「デフレは長期低迷の原因なのか結果なのか」と問いたいと感じる。物価は遅行指標なのだから、デフレが景気悪化の原因だと考えるのはもともとやや奇妙なのだ。大規模金融緩和の実施前には、リフレ派だけでなく多くの経済学者が「物価が下がると思えば、人々は消費を先送りしようとする」と述べていたが、これは日本では「例え話」の域を出ない。日本でも比較的インフレ率が高かった1970年代までの実証研究では、「インフレ率が上昇すると消費性向は低下する」という結論が一般的であった。確かに、インフレ率が上昇すると実質金利は低下する場合が多いが、家計の金融資産の大部分が預貯金である日本の場合、実質金融資産残高効果がマイナスに働くためである。
その後、日本のインフレ率はバブル期も含めてほとんどが2%以下だったため、実証研究は困難になったが、今回の実験によっていくつかの点が明確になった。まず、消費者物価の前年比がプラスになって「デフレでない状態」が実現して既に11年余りが経つが、この間の実質成長率は0.5%程度にしかならない。コロナ禍の影響を考慮しても、デフレでなくなったことで日本経済が復活したとは到底考えられない。さらに、消費者物価上昇率が一昨年4月に2%を超えて2年半以上が経つが、この間の実質成長率はわずか0.4%だ[6]。もちろん、この低成長には、初期の物価上昇がエネルギーや食料の輸入価格上昇という交易条件の悪化を伴ったことが影響している。今年は実質賃金上昇率もプラスに転じて、もう少し成長率は高まるだろう。それでも、デフレから脱却すれば、それだけで日本経済が長期停滞から脱すると考えるのが幻想に過ぎないことは十分に明らかになったと言えよう[7]。
[2] 自然利子率とは、完全雇用下で貯蓄と投資が一致する実質金利を指すが、近年はこれに基調的インフレ率(インフレ目標が実現すれば目標インフレ率)を加えた中立金利が政策金利との関連で注目されることが多い。しかし、中立金利の計測には不確実性が極めて大きい(日銀によれば、日本の場合1.0~2.5%)ため、政策目標としての有用性は低いと筆者は考えてきた。しかし、本報告書の説明を読むと、自然利子率の説明概念としての有用性がよく分かる。
[3] 理論的には、低金利下で設備投資が増加し、資本蓄積が進む可能性(プラス面)、金融緩和の下で新陳代謝が進まず、生産性の低いゾンビ企業等が生き残る可能性(マイナス面)などが指摘されている。
[4] 「実験」という言葉は、本報告書で使われている表現ではないが、大規模緩和はその効果が事前には分からなかった政策を実行してみたという意味で、筆者としてはあえて「実験」という言葉を用いたい。拙著『金融政策の「誤解」:“壮大な実験”の成果と限界』、慶應義塾大学出版会、2016年を参照。
[5] 渡辺努著『物価を考える』、日本経済新聞出版、2024年
[6] データ上、足もとの消費性向は上昇傾向にある。しかし、これはコロナ禍で積み上がった過剰貯蓄が解消されつつある結果だ。むしろ、日本の過剰貯蓄解消のスピードはエコノミストらが予想したものよりかなり鈍く、インフレ率上昇に伴うマイナス金利が消費性向の上昇につながっているというものではない。
[7] ただし、需給ギャップが悪化している訳ではないから、基本的には潜在成長率が低迷している結果である。アベノミクスの時代に多くの経済学者、エコノミストが「第3の矢(民間投資を喚起する成長戦略)」の重要性を強調したにもかかわらず、「第1の矢(大胆な金融政策)」に依存しすぎた結果とも言える。なお、これは「賃金と物価の好循環」だけが実現しても意味はなく、本当に求められるのは「生産性と実質所得の好循環」だということを示している。この点に関しては拙稿2つの「好循環」を考える ―求められるナラティヴの見直し― | 研究プログラム | 東京財団政策研究所を参照。