【書評】『戦争と戦争のはざまで ― E・H・カーと世界大戦』山中仁美著 佐々木雄太監訳・吉留公太・山本健・三牧聖子・板橋拓己・浜由樹子訳(ナカニシヤ出版、2017年) | 研究プログラム | 東京財団政策研究所

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【書評】『戦争と戦争のはざまで ― E・H・カーと世界大戦』山中仁美著 佐々木雄太監訳・吉留公太・山本健・三牧聖子・板橋拓己・浜由樹子訳(ナカニシヤ出版、2017年)

March 12, 2018

評者:細谷雄一(東京財団上席研究員/慶應義塾大学法学部教授)

はじめに

山中仁美は、若手の国際政治学者のなかでも、もっとも未来が嘱望された優れた研究者の一人であったが、病魔に襲われ2014年9月に永眠した。本書は、イギリスのキール大学に提出した山中の博士論文である Beyond Nineteenth-Century Liberal Internationalism: Rethinking the Works of E.H. Carr (十九世紀の自由主義的国際主義を超えて ―E・H・カーの業績に関する再考察)を、生前に親しい友人であった同世代の国際政治学者たちが翻訳したものである。

監訳者である佐々木雄太名古屋大学名誉教授によるあとがきには、次のように書かれている。「本来、著者本人が邦語版を上梓する計画であり、邦語の書名や『まえがき』が本人によって用意されていた。しかし、後述の通り、早過ぎた死の到来がその機会を奪ってしまった。これを心から悼んで、代わって翻訳の労を取ろうという友人たちの友情と学問的熱意が本書の刊行を実現に導いたのである。」(283頁)

本書の価値は、そのような同世代の研究者の間で育まれた友情や追憶の記録にとどまるものではけっしてない。むしろ、本書の価値をよく知るからこそ、それらの研究者は翻訳を急ぎ、本書を日本の読者に向けて刊行する意義を痛感していたのではないか。そして後に詳しく論じるように、本書が刊行される意義は、そもそも本書のもととなる博士論文により学位が授与された2010年よりも、むしろ現在においてより大きなものと考えている。

というのも、現在、中国やロシアによる力に基づいた現状変更の試みや、アメリカにおけるトランプ政権の誕生によるリベラルな国際秩序の揺らぎに見られるように、われわれが自明と考えていた国際秩序が大きく動揺しているからである。E.H.カーが有していた問題意識は、まさにそのようにして、目の前にある国際秩序が大きく動揺するなかで、いかにしてそれを平和的に変革するのか、ということである。

本書が論じるところの「自由主義的国際主義」と、現在しばしば言及されているリベラルな国際秩序は、必ずしも同義ではない。しかしながら両者において、重なるところも少なくはない。そのような問題意識は、著者自らが「終章」のなかで次のように述べているところである。

「本書を締めくくるに当たって、今日あらためてカーの業績を読み返す理由を二つ述べておきたい。第一に、西側自由主義の地位の変化が、それに対する批判的な再検討を必要としていることである。冷戦後の世界において、西側自由主義の勝利を絶対視する考え方が強い影響力を持ってきた。第一章で触れたように、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』という観念が大変もてはやされ、アメリカと西側世界の政治エリートの間のみに限らず、自由民主主義が他のすべての対抗イデオロギーに打ち勝ったという見解が一般的になった。実際、現在の世界観の大部分を形作っているのは、西側の自由民主主義の普遍化が統治の最終形態であるとする政治的言説、新自由主義的な資本主義に立脚した自由市場経済の支配、そして集団的な構造から独立した自立的で道具的な諸個人という観念である。これらが、カーの時代に十九世紀的自由主義的の教義が果たしていたように、今日の政治理論や政治的実践に決定的な役割を果たしている。」(231頁)

著者は、そのような認識が現在隘路に陥り、限界に直面していることに注目する。そして、トランプ政権の成立や、それに伴ってリベラルな国際秩序の危機が言及されるようになった現在において、 [1] 必ずしも「自由民主主義がほかのすべての対抗イデオロギーに打ち勝ったという見解が一般的にあった」とはいえなくなっている。たとえばイギリスのシンクタンク、チャタムハウスの所長であるロビン・二ブレットは、リベラリズムの後退を語り、またアメリカの国際政治学者バリー・ポーゼンは、「非自由主義的なへゲモニー(illiberal hegemony)」の台頭に目を向けている。 [2]

「自由主義的国際主義」の理念は、著者によれば、覇権国が自らの利益を維持するために用いる道具であるに過ぎない。そして、「持てる者」と「持たざる者」に分かれている国際社会において、貧富の差、力の配分の格差、不平等といったものは解消されていない。カーは、実際に、『危機の二十年』の第十三章の「平和的変革」において、そのような英米が自らの利益を固定化しようとする国際秩序を、平和的に変革する方途を、具体的に提唱している。カーのそのような問題意識に著者は目を向けて、単純な「リアリスト」のカテゴリーには収まらないカーの新しい顔に、光を当てている。 [3]

いわば、自由主義的国際主義が限界に直面し崩れていった1930年代と、リベラルな国際秩序が衰退しつつある現代とをパラレルに論じることで、直面している問題の共通性と差異を浮かび上がらせることに成功している。そして、そのための媒介として、著者はカーという巨大な知識人の作品に着目するのである。著者は、ほかの著作のなかで、「戦間期に彼が挑んだ問題群が再び目前にぶら下がっているような現況にあって、『危機の二十年』の再考は無意味ではない」と論じている。 [4] それでは、著者がどのようにカーを通じて、国際秩序の改革の必要を考えているのかを、見ていきたい。

1. 本書の構成

本書の構成は以下の通りである。

序章  新しいパラダイムへ

第一部 カーの核心問題への接近

第一章 「E・H・カー研究」の問題性

第二章 自由主義的国際主義の復活

第二部 具体的な問題と処方箋

第三章 「ドイツ問題」

第四章 「ソヴィエト・インパクト」

第五章 「新しいヨーロッパ」

第六章 「新しいヨーロッパの家」のための新しい社会秩序

終章

(1)「序章」

「序章 新しいパラダイムへ」では、「カー・リバイバル」と呼ばれるような、冷戦後のE・H・カー研究の活況のなかでも、本書が持つ独創性と特質を浮かび上がらせている。その際に、クエンティン・スキナーの方法論を利用して、その思想家の「テクスト」だけではなく、その思想家が生きた時代の「コンテクスト」を論じることで、その本質により接近しようと試みている。そのことについて、著者は次のように語っている。 [5]

「本書が主張するのは、カーの思想と行動の基本的要素のすべては、二十世紀の国際的文脈に移植された十九世紀の政治的・経済的教義に対する鋭い批判と結びついていた、という趣旨である。」(4-5頁)

そのためには、「カーが、二十世紀前半の支配的な言説や既存の国際秩序の覇権的構造に対して自らの批判的な姿勢を明らかに示しつつ、同時代の国際的・国内的課題に取り組みながら、その問いをどのように発展させ、深化させたのかを明らかしようとする」ことが重要となる(5頁)。ここでいうところの、「二十世紀前半の支配的な言説や既存の国際秩序の覇権的構造」とは、すなわち「自由主義的国際秩序」を唱える知識人であって、そのような理念を基礎とした実際の英米を中心とする国際秩序である。そしてそのような19世紀的な自由民主主義を20世紀という異なる時間に移植することを、カーは、「不毛と幻滅」に至ったと述べている(14頁)。

(2)「第一部 カーの核心問題への接近」

「第一部 カーの核心問題への接近」においては、本書の基本枠組みとなる方法論と、その背景を概説している。

まず、「第一章 「E・H・カー研究」の問題性」においては、カー研究の現状を簡潔かつ適切に概観している。そこで著者は最初に、「学問分野ごとに評価の異なる『カー』像が少なくとも三つ存在する」と論じる(21頁)。「一人目のカーは国際関係研究者のカーであり、二人目はソヴィエト・ロシア研究のカーであり、そして三人目は歴史哲学者のカーである。」(21頁)そして著者は、それぞれについてより詳しく、研究状況を解説する。

1980年代に至るまで、長らくカーは、とりわけアメリカにおいて科学的アプローチが興隆する中で、忘れられた、あるいは批判の対象となるような思想家であった。もっぱらその期間には、カーの議論の欠陥ばかりが指摘されてきた。それが1980年代になって、徐々にカーの著作が好意的に論じられるようになる。とりわけイギリスにおいて、著者の言葉を使えば、「現実主義-実証主義パラダイムに代わるもの」として期待が集まった(29頁)。

著者によれば、「1990年代後半以降、カーに関する研究書が多数上梓され、三人のカーを一人のカーへと統合しようとする傾向が顕著になったという(41頁)。著者もそのような潮流に合わせて、より統一的な「一人のカー」を提示しようと試みる。

「第二章 自由主義的国際主義の復活」では、本書の通奏低音ともいえる、カーの考える「自由主義的国際主義」の発展の歴史が概観されている。また、カーがそのような思想と対決する知的格闘を論じている。著者は、「本章の目的は、十九世紀の自由主義的国際主義と、それを継承した戦間期の理想主義に対するカーの哲学的対決を検証することにある」という(55頁)。カーによれば、「伝統的な自由主義的思考様式の中で国際関係における共通善とみなされていた概念は、その当時の強者であった自由主義国家の利益を反映していたにすぎなかった」(56頁)。

20世紀に入ると、そのような「自由主義的国際主義」のイデオロギーは、次第に退潮していく。すなわち、「自由主義の勝利は、新しい世紀には受け継がれなかった。十九世紀後半になると、自由主義的国際思想を代表していた人々は、旧い専制体制の遺産と大衆の政治参加への意識の高まりとの板挟みになり、国の内外で政治的敗北とイデオロギー状の分裂を被ることになった。この時期に、恒久平和と自由貿易という自由主義的国際主義の二つの主要な教義は、徐々にではあるが、疑問視されるようになっていったのである。」(62頁)というのも、「社会主義の大きな影響もあって、社会的公正を進めるうえでも、自由な経済競争の適切な環境を提供するためにも、いまや国家による介入が一定の役割を果たすことが期待された」からである(62頁)。

20世紀前半の世界において、それまでの「自由主義的国際主義」は、「ユートピアニスト」として復活する。ところが、1930年代の世界は権力政治が普及していき、「レッセフェール」や「利益の調和」に基づいた「ユートピア」の思想は敗北し、退潮する。いわば、「リアリズム」が求められるようになるのである。彼らが想定するようには、歴史は進行していかなかった。それについて著者は、端的に次のように論じる。

「『ウィルソン的理想主義』の場合と同様に、法の支配というシステムを普遍化しようという試みは、政治だけではなくイデオロギーの次元でも展開された。政治的観点からいうと、英・米のドイツに対する勝利は、新しい世界秩序を構築し国際平和と安全保障を維持する試みにおいて、英・米が支配的な地位を占めることを意味した。他方、イデオロギーの面では、『民主主義的で立憲的』な国家が『独裁的で軍国主義的な』列強に勝利したことが、国際領域において伝統的な英・米の立憲主義およびその不可欠の支柱である法の支配を復活させる、決定的な出来事であった。」(81頁)

この時代の「理想主義者」が、ナチス・ドイツや日本による権力政治への回帰を目撃して、諸国家の理性や調和に依拠するのみでは平和は実現できないことを学んだ。それが、国際連合設立の動きと、強制力に基づいた集団安全保障体制の成立への動きと符合している。それについて著者は次のように説明する。

「このようにして、ファシズム諸国による膨張主義と軍国主義に特徴づけられた1930年代に、次第に多くの『理想主義者』は、侵害や侵略の可能性から平和と安全のシステムを守るために、国際領域における強制力の必要性を強調するようになった。その結果、軍事的制裁を含む封じ込めをいっそう支持するようになった『理想主義者』は、集団安全保障は再軍備化を招くとしてこれを否定した『百パーセントの平和主義』の立場と距離を広げていた。」(84頁)

この第二章は、本書の中核ともいえる部分に該当する。いわば、19世紀の自由主義的国際主義が、20世紀の権力政治の時代をくぐり抜けて、どのように限界に直面して、どのように弁証法的に変容していくかが論じられている。そして、カーはそのような中で、純粋なリアリストとなって力を信奉するのではなく、むしろ「平和的変革」の可能性に期待して、新しい世界秩序を構想するのである。そのような新しい世界秩序の形成に著者が目を向けるのが、第二部であった。

(3)「第二部 具体的な問題と処方箋」

「第二部 具体的な問題と処方箋」では、戦間期および第二次世界大戦期において、カーが具体的どのようなかたちで、戦後のヨーロッパ秩序を構想して、それを実現しようと試みたのかが論じられている。第一部が、抽象的なカーの国際政治観が論じられているのに対して、第二部では具体的な「新しいヨーロッパ」を創るためにカーが提唱する「平和的変革」のアプローチを検討している。この部分は、従来のカー研究が必ずしも十分に掘り下げてこなかった、著者の研究の独創性であり、価値ある貢献である。

「第三章 『ドイツ問題』」では、ヒトラーが台頭するドイツの対外的要求に対して、カーがどのような論評を行い、どのようにしてそれに対応しようとしたのかを論じている。すでに見てきたように、カーは英米両国を、既得権益を守ろうとする覇権国として位置づけ、それら両国が擁護する自由主義的国際主義の国際秩序を批判的に論じている。

他方で、著者が述べるように、「1930年代全般を通じて、カーはドイツの対外的要求を大目に見る態度を貫き、宥和政策のもっとも影響力のある主唱者の一人と考えられてきた」(97頁)。著者によれば、「ドイツへの譲歩を支持するカーの主張は、ドイツはヴェルサイユ講和を強いられた『犠牲者』であり、また『持てる者』の現状維持に挑戦する『持たざる者』であるという認識に拠って立つもので、それは戦間期の自由主義的国際秩序に対する彼の疑念に起因していた」という(98頁)。カーは純粋に、ヴェルサイユ体制における戦後処理によって、「ドイツがひどい扱いを受けていると感じていた」のだ(99頁)。

カーはあまりにも、「持たざる者」であるドイツやソ連に対して優しく、それらの諸国の行動に楽観的であった。すなわちカーは、ヒトラーの台頭による危険性を十分に理解していなかったのだ。カー自らが、「一九三八年のドイツによるオーストリア併合以前には『一度もヒトラーを深刻な危険とは考えなかった』と認めている」のだ(102頁)。著者は、カーの「『ヒトラリズム』理解の限界」を批判的に指摘する。カーはしばしば、現状の国際政治の動きを見誤ることがあったが、その中でも最も大きな誤りが、このような「ヒトラリズム』理解についてであった。

「第四章 『ソヴィエト・インパクト』」において、著者はカーのロシア理解について光を当てて、新しい視点を提示する。カーは若き外交官時代に、ドストエフスキーやゲルツェンといったロシアの知識人の著作に多大な影響を受けた。それは、著者によれば、西欧自由主義への批判的で懐疑的な視座を得ることに有用であったという。ロシアの作家が描く、非合理的で、非自由主義的な世界観は、あまりにも新鮮であり魅力的であった。すなわち、「おそらく重要なことは、ロシアに刺激を受けたカーの西欧自由主義に対する最初の批判の基礎を形成したのは、革命という同時代の出来事ではなく、十九世紀ロシアの作家たちであったということである。」(128頁)このようにして、次第にカーはロシアへの関心を深めていった。それと同時に、西欧自由主義とは異なる世界観から、ヨーロッパ秩序を形成する可能性と必要性を認識するようになる。

同時に、著者は、カーの国際政治理解の基礎として、マルクス主義的な思考法が潜んでいることを見抜いた。いわば、『危機の二十年』において、「この著作の終わりから二番目の章に登場する『持てる者』と『持たざる者』との間の『平和的変更』に関する彼の構想は、

資本・労働関係に関するマルクスの階級理論を国際関係に適用したものであった。」(131頁)このように、カーのマルクス主義の思想への共感ではなく、その思考法への共感に着目する視点は興味深い。

「第五章 『新しいヨーロッパ』」と「第六章 『新しいヨーロッパの家』のための新しい社会秩序」は、実際に第二次世界大戦後に新しい秩序を形成しようとする際のカーの思考を鮮やかに抽出しており、本書の中核となるもう一つの重要な部分といえる。

カーは、「平和的変革」によって、それまでのヨーロッパ秩序を改革していく必要を感じていた。その上で、「新しいヨーロッパ」においては、ドイツとソ連の双方が含まれていることが必要だと考えていた。さらには、イギリスもまたそこに、加わるべきであった。それは、コモンウェルスのようなゆるやかな主権国家間の連合である。

そして、カーが考える「新しいヨーロッパ」という構想は、ヒトラーの「新秩序」への対抗であった。すなわち、「第二次世界大戦が勃発すると、カーは、ヒトラーの『新秩序』に対するアンチテーゼとして、『新しいヨーロッパ』という構想を発展させることになった。」(165頁)このときカーは、戦時中の情報省勤務を辞して、『タイムズ』紙の社説を担当する編集副主幹となっていた。カーは、新聞の社説を通じて、自らの新秩序構想を人々に伝えたかったのだ。

その具体的な内容について、著者は次のように論じる。「カーの『新しいヨーロッパ』が直面した問題は、『自由放任のアナーキーな傾向』を排除して、どのように『人々の多様性』と、『中央集権的な管理』とのバランスをとるかであった。戦後の初期段階において、彼の『新しいヨーロッパ』は反ヒトラー・プロジェクトとして生まれたが、それは、多国家からなる単位に構成され、十九世紀の自由主義的秩序とは異なった政治・経済構造に組織されるものであった。」(166頁)

そして続いて「第六章」では、そのような「新しいヨーロッパ」を実現するための、イギリスの国内的改革についても論じられている。カーの秩序構想は、イギリスの国内社会の改革と、ヨーロッパの国際秩序の改革が、同時進行で進むべきものであり、そのいずれも十九世紀的な「レッセフェール」と訣別すべきものであった。その結論として、著者は、「本書がとりわけ論証しようと試みたのは、十九世紀的な自由主義的国際主義の影響力に対する一貫した批判としてカーの思想を読み解くことが、もっとも理にかなっているという主旨である」と論じて、終章を閉じている(233頁)。

2. 本書の評価 ―自由主義的国際主義の隘路

(1) 国際政治思想史と国際政治史の融合

山中仁美は、本書の中で、国際政治思想史的なアプローチと、国際政治史的なアプローチを融合させることで、スキナーが政治思想史研究で行った手法と類似した総合的な視点を提供しようとしている。それはおおよそ、成功しているといえるだろう。

そのようなアプローチは、日本外交史研究において酒井哲哉東京大学教授が『近代日本の国際秩序論』(岩波書店、2007年)において行おうとした手法と類似している。山中は、津田塾大学では、北欧外交史研究の百瀬宏名誉教授、さらには大島美穂教授の指導を受けている。また、キール大学では、外交史研究のアレックス・ダンチェフ教授の指導を受けている。いわば、自らのE・H・カーの国際政治論に対する関心と、国際政治史研究の方法論とを結合させることで、独自のアプローチを発展させたといえるだろう。それは従来の国際政治思想史研究を、よりいっそう進化させるものであり、多大な貢献といえるだろう。

言い換えれば、カーの国際政治思想と、カーが生きた時代の歴史的な時代背景とを結びつけることによって、20世紀における巨大な精神的な変化の流れを概観することに成功している。それは、19世紀的なレッセフェールに基づいた「自由主義的国際主義」の時代から、計画や富の再配分といった措置を導入した「新しいヨーロッパ」の時代であった。

(2)批判理論のアプローチ

同時に山中は、キール大学でアンドリュー・リンクレーター教授(後にアベリトウィス大学E・H・カー記念講座教授)のアプローチからの影響も受けており、国際政治理論における批判理論を用いて、伝統的な主権国家体系の枠組みの相対化の必要性に言及し、世界秩序論を展開しているといえる。リンクレイターは、政治共同体(political community)の変容についての優れた著作があると同時に、近年はE・H・カー研究においても独創的な視座から、新しい議論を展開している。 [6] そのような、最先端の国際政治理論とカー研究の成果を組み込んで、著者は本書の後半の「新しいヨーロッパ」についての議論を展開しているといえる。それは、きわめて独創的な内容となっている。

それゆえに、山中は既存の「自由主義的国際主義」に基づいた英米が「持てる者」となった国際秩序には批判的であり、それを変革する必要を説くカーの言説に繰り返し共感を示している。また、既存の主権国家体系が、覇権国の利益を恒久化するものという、マルクス主義の思考法を基礎としたカーの国際秩序観を参照して、現代の英米中心のリベラルな国際秩序や、「法の支配」に対しても、厳しい批判的な見解を加えている。そこに、著者のカー研究における特徴が見られる。

(3)「リアリスト」を超えて

その前提として指摘するべきことは、著者がカーを「リアリスト」と位置づけることにきわめて批判的な議論をしていることである。著者が述べるように、カーは純粋な「リアリスト」ではなかったが、他方で権力を理解する重要性や、権力を用いて社会を変革し、計画を実行する意義についても説いている。その意味では「リアリスト」でもあった。カーは、あまりにも多面的な顔を持っており、またその議論も両義的に解釈可能な場合が多いことから、自らの国際政治観を正当化するためにカーの議論を応用することが多くみられる。それが可能となるほど、カーの知的な活動は多岐にわたり、またその議論は多義的な解釈が可能なものである。 [7]

カーが、純粋な「リアリスト」ではなかったということと、「リアリスト」的な性質を持たないということは、同じではない。また、カーは戦間期においてヒトラーのドイツや、スターリンのソ連に対して、やや宥和的な言説を繰り返していたが、そのような視点は戦後に大幅に修正している。カーの主張が、「リアリズム」と「ユートピアイズム」の総合にあるのに対して、著者は「自由主義的国際主義」としての「ユートピアイズム」と、権力政治としての「リアリズム」の双方に対して厳しい批判を加えることで、カーの「平和的変革」への視座をやや強調しすぎている印象がある。

著者が述べるように、カーはあまりにも多くの異なる顔をわれわれに見せている。そうである以上は、これからも新しいカー研究が刊行されることであろう。ただし、その上で、山中仁美の本書は、最も独創的で最も価値の高い労作として、長く読まれていくことであろう。

3.参考文献

(1)カーの著作

E・H・カー『危機の二十年』原彬久訳(岩波文庫、2011年)

(2)日本語文献

G・ジョン・アイケンベリー『リベラルな秩序か帝国か ―アメリカと世界政治の行方(上・下)』細谷雄一監訳(勁草書房、2012年)

西村邦行『国際政治学の誕生 ―E・H・カーと近代の隘路』(昭和堂、2012年)

細谷雄一『大英帝国の外交官』(筑摩書店、2005年)(「第三章 『新しい社会』という誘惑 ―E・H・カー」)

三牧聖子「『危機の二十年』(1939)の国際政治観 ―パシフィズムとの共鳴―」日本政治学会編『年報政治学2008-I』(木鐸社、2008年)。

山中仁美『戦間期国際政治とE・H・カー』(岩波書店、2017年)

デーヴィッド・ロング/ピーター・ウィルソン編『危機の20年と思想家たち ―戦間期理想主義の再評価』(ミネルヴァ書房、2002年)

(3)英語文献

Michael Cox (ed.), E.H. Carr: A Critical Appraisal (Basingstoke: Palgrave, 2000).

Michael Cox, “A New Preface”, in E.H. Carr, The Twenty Years’ Crisis, 1919-1939 (Basingstoke: Palgrave, 2016).

[1] たとえば、Stephen M. Walt (2016), ‘The Collapse of the Liberal World Order’, Foreign Policy, June 26, 2016, http://foreignpolicy.com/2016/06/26/the-collapse-of-the-liberal-world-order-european-union-brexit-donald-trump/ (accessed on 7 January 2018); Robert Kagan (2017), ‘The Twilight of the Liberal World Order’, January 24, 2017, https://www.brookings.edu/research/the-twilight-of-the-liberal-world-order/ (accessed on 7 January 2018).

[2] Robin Niblett, “Liberalism in Retreat: The Demise of a Dream”, Foreign Affairs, vol.96, no.1, January/February 2017, pp.17-24; Barry R. Posen, “The Rise of Illiberal Hegemony”, Foreign Affairs, vol.97,, no.2, March/April 2018, pp.20-27.

[3] 同様の問題意識は、遠藤誠司「『危機の二十年』から国際秩序の再建へ -E.H.カーの国際政治理論の再検討」『思想』954号(2003年)52-53頁や、三牧聖子「『危機の二十年』(1939)の国際政治観 ―パシフィズムとの共鳴―」日本政治学会編『年報政治学2008-I』(木鐸社、2008年)306-323頁においても見ることができる。

[4] 山中仁美『戦間期国際政治とE・H・カー』(岩波書店、2017年)x頁。

[5] スキナーの思想史の方法論については、クエンティン・スキナー『思想史とは何か -意味とコンテクスト』半澤孝麿・加藤節訳(岩波書店、1999年)などを参照。

[6] Andrew Linklater, “E.H.Carr, Nationalism and the Future of the Sovereign State”, in Michael Cox (ed.), E.H. Carr: A Critical Appraisal (Basingstoke: Palgrave, 2000) pp.234-257.

[7] 細谷雄一「『新しい社会』という誘惑 -E.H.カー」細谷『大英帝国の外交官』(筑摩書店、2005年)132-134頁。

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