安倍晋三首相は普遍的価値に基づく外交ビジョンを示し、それによってリベラルな国際秩序の維持を図り、次代の礎となる制度改革も実現した。外交遺産がないと批判されるが「安倍前」と「安倍後」を画す日本外交の質的転換を果たした。
従来の日本外交は、日米、日中、日ロというように、日本と相手国をつなぎ、線としての2国間関係を良好に維持・管理する調整型のアプローチが中心だった。安倍氏はこれに対し「地球儀俯瞰(ふかん)外交」や「自由で開かれたインド太平洋」構想(FOIP)のように、点と線ではなく、面としての外交ビジョンを打ち出した。これらは自ら秩序をつくり出そうとする意思の表れである。大国がつくった既存の秩序の枠内で日本の安全・繁栄を守ってきた過去の外交とは明確に異なる。FOIPは米国をはじめ、主要国の賛同を取り付け、外交界ですっかり定着している。日本がビジョンを示し、インド太平洋地域の秩序形成を主導した好例だ。
安全保障面では「国際協調主義に基づく積極的平和主義」を掲げた。2015年に成立し、集団的自衛権の行使を限定的に認めた安保法制はその表れである。日本外交は長らく「孤立主義」「一国主義」に特徴付けられてきた。戦前は軍国主義という孤立主義に陥ったし、戦後は一国平和主義的な外交を展開した。安保法制はこれを転換し、安保政策の領域に国際協調主義を広げる試みだった。憲法との整合性をはじめ、さまざまな批判はあったが、意義の一つだろう。こうした取り組みを進めるに当たり、安倍政権は外交・安保の司令塔となる国家安全保障会議(NSC)を創設し、13年末に初の「国家安全保障戦略」を策定した。縦割り行政では国家の意思を明示できないとの反省に立った制度改革である。このレガシー(遺産)は政権が代わっても、半永久的に続いていくに違いない。特に新型コロナウイルス感染症の収束が見通せない現状では、これまで以上に省庁横断的な取り組みが求められる。NSCは官邸主導の各省連携の土台となる。
一方で、意欲を見せたロシアのプーチン大統領との北方領土交渉は挫折した。北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長との面会はかなわず、拉致問題も解決できなかった。安倍外交の強みは普遍的価値の重視にある。価値を共有する国々との協力では大きな成果を上げ、トランプ米大統領とも緊密な個人的関係を築くことに成功した。半面、価値を共有しない国との外交交渉には異なるアプローチが必要だった。信頼・友好だけではロシアや北朝鮮との関係はつくれない。安倍外交の限界とも言える。韓国との関係も悪化した。外交青書から一時「重要な隣国」との記述が消えたことに表れているが、互いに価値を共有する相手と見なさず、不信の連鎖に帰結した。
次期政権の大きな課題は米中対立への対処にある。その際「米中のつくる国際秩序の中でどう生きていくか」というのは「安倍前」の問題の立て方だ。唯一の同盟国の米国と最大の貿易相手である中国のいずれかを選ぶことはできない。どちらも必要だからだ。秩序形成を自ら主導して双方を巻き込み、米国か中国かという二分法を回避することが求められる。
2020年8月30日 『共同通信』配信