「先生、今さら旧い時代の過去を学ぶことに、どのような意味があるのですか?」
学生からこのような質問を受けることがある。その含意は、変化の激しい現代という時代にいるわれわれにとって、はるか昔の過去に関する知識を詰め込むことに、どのような意味があるのかわからない、ということであろう。
私自身、大学の法学部に所属していながらも、法律が専門ではなく、国際政治学のなかの外交史を専門としている。他方で、日本の政策形成に携わる官僚や、政治指導者たちの間に、大学で歴史学を専攻したという話は、ほとんど聞かない。これは、イギリスの政治家や官僚のなかに、大学時代に歴史を学んだ者が多いことと比較すると、日本における独特な特徴といえる。日本では、政策を形成する上で歴史を学ぶことに価値があるという認識が、必ずしも浸透していない。
東京財団政策研究所という政策シンクタンクにおいて、現代の政策を深く理解するためにも歴史を学ぶ意義を考え、2007年4月に日本政治外交史が専門の北岡伸一東京大学教授(当時)をリーダーとして政治外交検証研究会が発足し、これまで会合を重ねてきた。同研究会のメールマガジン創刊号で、北岡氏は外交評論家清沢洌の次のような言葉を引用している。
「外交史に関する知識が、今日ほど必要とされている時はない。この知識を基礎とせずして造りあげられたる外交政策と、外交輿論は、根のない花である」。
清沢はもともと、ジャーナリストであり、外交評論家であった。外交史家ではない。しかしながら、戦争の時代において清沢は言論活動が封じられるなか、歴史を通じて現代のあるべき外交の姿を描いたのである。
現代世界において歴史学は専門分化が進み、独立したアカデミック・コミュニティの壁のなかで研究活動が行われる。他方で、その学問的知見を基礎として、現実の政治や社会に対してどのような影響を及ぼしうるかということについて、必ずしも深い関心を持つプロフェッショナルな歴史家は多くはないように思える。ここではむしろ、そうではない例を挙げてみたい。すなわち、歴史を学ぶということと、現実の世界を動かし、政策をつくるということとを結びつけて考えていた歴史家を紹介して、そこからわれわれが得られる示唆を考えていきたい。
外交史家チャールズ・ウェブスターの眼差し
第一次世界大戦終結直前の1918年8月。外交史家チャールズ・ウェブスターは、政府のなかである依頼を受けた。このとき彼は、リヴァプール大学歴史学部教授の地位を離れ、同年2月に海軍省から外務省に移転された歴史課で勤務をしていた。彼は同課の委託を受け、「講和ハンドブック」のなかの「ウィーン会議」の巻を執筆することになったのである。[2]
イギリス政府はこのとき、一世代を超えて、大国間戦争後の講和会議への参加、さらには講和条約の起草には自らが当事者として関与していなかった。ヨーロッパ全体を包み込む戦争としては1世紀前の、ナポレオン戦争後のウィーン会議、より規模が小さい少数の諸国間の講和ということであれば、1856年のクリミア戦争後のパリ会議、そして1878年の露土戦争後の緊張状態が悪化した後のベルリン会議への参加にとどまる。自らの経験として、規模の大きな講和会議で講和条約を起草した記憶がないのである。そのようなこともあり、外交史家の力を借りて1世紀前のウィーン会議において、イギリス外務省がどのように講和条約の起草に携わっていたのか、歴史から学ぶ必要が生じたのである。そのような経緯でイギリス外務省は、外交史家ウェブスターに講和ハンドブックの「ウィーン会議」の巻の執筆を依頼した。そして、この「ハンドブック」は外務省内および、パリ講和会議におけるイギリス政府代表団の間で広く読まれた。
ウェブスターは、第一次世界大戦後には大学の教壇に戻った。1932年以降はロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)のスティーブンソン講座教授のポストに就いて、後進の育成にあたった。だが、再び世界大戦が勃発すると、イギリス外務省はまたもや、彼の外交史研究の知見を活用したいと考えたのである。最初は、イギリス外務省と深い繋がりのあるシンクタンク、王立国際問題研究所(RIIA)、いわゆるチャタムハウス内に設置された海外調査報道部でアメリカ情勢の調査の業務にあたっていた。ところがその後、1942年になるとこの海外調査報道部が、外務省経済復興局に組み込まれることになり、それとともにウェブスターも再び外務省で勤務することになる。そこでの主たる任務は、世界大戦後の戦後構想を描くことであった。そして、ナポレオン戦争後、ヨーロッパに長期的な平和と安定をもたらしたウィーン体制についての彼の研究を基礎として、ウェブスターは、新しい「世界機構」のなかに大国間協調を実現するための、のちの国連安全保障理事会の枠組みを提唱することになる。[3]
このようにウェブスターという外交史家の構想を通じて、二度の世界大戦の後に、イギリス政府は大国間協調を基礎にして、さらには小国にも一定の権利を与えるようなリベラルな秩序構想を提唱するようになる。
「外部者」としての歴史家の効用
「歴史家たちは現実政治の諸問題を理解してそれに助言をすることが、悪名高いほどに苦手であるということ、さらには現代の潮流をフォローする習性や、それについて知的な文章を書く技術ということについては、外務省の外では現実のところ、ジャーナリズムの職業に就くものに限定されている」。[4]
これは、20世紀のイギリスを代表する著名な外交官であり、外務事務次官を務めたサー・エア・クロウが、歴史家が現実問題を論じることが得意ではないことを指摘した一文である。これを紹介した、ケンブリッジ大学で長年外交史を教えていた歴史家のザラ・スタイナーは、問題はそれだけではなくて、歴史家という者の多くが、一般読者ではなくて、同業者である歴史家の目ばかりを気にして文章を書いていると、繰り返し批判されている現実にも触れている。
イギリスではこのように、歴史家が現実の政治にどの程度関与するべきか、そしてどのようなかたちで関与することが可能なのかについて、さまざまな議論がなされてきた。他方で、第一次世界大戦の際に、イギリス外務省内には政治情報局(PID)が設置されて、そこにアーノルド・トインビー、ルイス・ネーミア、アルフレッド・ジマーンというような優れた若き歴史家が参加したり、あるいは後に優れた歴史書を刊行することになるE・H・カーやハロルド・ニコルソンのような入省間もない外交官たちが参加したりした。そこではある程度、歴史学と外交政策立案が麗しいハーモニーを醸し出していた。
歴史家がどのようなかたちで、現実の政策に関与することができるのかについて検討をしたスタイナーは、次のような興味深い示唆を言及している。すなわち、「官僚制を学ぶあらゆる研究者が知っているとおり、省庁とは(外務省がそのもっともよい例だが)、それ自らの『グループ的思考』を有しており、引き継がれてきた伝統や、共有された想定というものによってその判断が形成されてしまっているのだ。その外部者が、一時的にそこに任命されるならば、そのような確立した階層的な組織には組み込まれていない、という利点があるのだ」。[5]
なるほど、確かに何十年も同じ組織のなかにいて、そして何十年も同質的な同僚といっしょに仕事をしていれば、ある独特な「グループ的思考」に陥ってしまい、国際情勢を見る際に「死角」が生まれたとしても不思議ではない。もちろん、その「外部者」である歴史家がつねに、有益な視座や知識を提供できるとはかぎらない。だが、内部にいる者には気がつかない有益な助言を提供できるということは考えられることであろう。二度の世界大戦の時代に、イギリス外務省が外交史家であるチャールズ・ウェブスターを雇い、戦後構想を描く上での重要な助言を求めたのは、自然なことであろう。
他方で、そのような有益な視座や助言を提供できるためには、外交史家もまたつねに、「現実政治の諸問題を理解」して、「現代の潮流をフォローする習性」を身につけ、わかりやすい「知的な文章を書く技術」を磨かなければならないのであろう。政治外交検証研究会が、そのようなフォーラムとなることを目指していきたい。
[1] 北岡伸一『増補版・清沢洌 ―外交評論の運命』(中公新書、2004年)185頁。
[2] 「講和ハンドブック」は、来るべき第一次世界大戦後の講和会議に向けて、安定的な戦後秩序を構想するために同国を代表する優れた知性を集積してまとめられた全174巻の冊子である。このあたりの経緯は、この時代のイギリス外交史が専門の大久保明名古屋大学准教授による『大陸関与と離脱の狭間で ―イギリス外交と第一次世界大戦後の西欧安全保障』(名古屋大学出版会、2018年)78-79頁に詳しい。
[3] この詳しい経緯は、細谷雄一「国際連合創設への設計図 ―チャールズ・ウェブスターと世界秩序の構想、一九四二年-四三年」『法学研究』84巻、1号(2011年)91-128頁を参照。
[4] Zara Steiner, “The Historian and the Foreign Office,” in Christopher Hill and Pamela Beshoff (eds.), Two Worlds of International Relations: Academics, Practitioners and the Trade in Ideas (London: Routledge, 1994) p.40.
[5] Steiner, “The Historian and the Foreign Office, ” p.46.