小林慶一郎
日本経済を取り巻く環境
日本経済を巡る経済環境は、昨年の世界経済危機によって大きく変化した。リーマンブラザーズの破たん以降、アメリカの消費や投資が急速に落ち込み、日本の輸出は急減した。2002年以降の経済回復を輸出主導で実現した日本は大きな打撃を受け、リーマンショック後の経済成長は、先進諸国の中で日本が最悪になった。円高も急速に進み、輸出の回復を阻害している。輸出が減る中で内需は盛り上がらず、そのため、物価が下落する傾向が顕著になり、昨年11月には政府はデフレ宣言をするにいたった。年末から新年にかけて、為替はやや円安に戻る傾向がみられ、そこに菅財務大臣の円安誘導発言があったため、急に円安が進んだ。しかし、輸出の趨勢的な減少と円高傾向というリーマンショック後の日本経済の基本的な環境は変化していない。
世界経済を見ても、アメリカ経済の回復は弱々しく、アメリカの需要がこれまでのように高成長するとは期待できない。今年以降のアメリカの景気回復については強気の見方が大勢であるが、アメリカとヨーロッパの金融システムが抱えた不良資産問題は根深く、欧米の金融システムが健全になるには長い年月がかかると思われる。また、アメリカの消費者は、「住宅を担保に負債を増やし、借りた資金で消費をする」というこれまでの行動パターンを改めつつあるので、消費がリーマンショックの前の水準に戻るとは考えにくい。欧米の金融システムやマクロ経済は今後も長期的に停滞する可能性があり、日本の欧米への輸出が急速に回復するとは考えられないのである。代わって世界経済の成長を引っ張るのは中国やインドなどの新興国と期待されているが、今後は、新興国市場を日本、アメリカ、ヨーロッパが奪い合う構図になりつつある。
短期と中・長期の政策課題
日本経済に関する政策課題は多岐にわたる。錯綜した課題を整理するためには、短期的課題と長期的課題を分けて考えなければならない。
短期的には、世界経済危機による外需の不足をいかにして補うかが課題である。そのためには、財政政策によって公需(政府投資、政府消費)を増やすとともに、為替を円安に誘導して外需(輸出)を回復させることが必要であると思われる。円安に誘導するためには、金融緩和によって貨幣供給量を増やしデフレ傾向を止めるか、為替市場への何らかの介入によって円安傾向を生み出すことが必要であると思われる。
一方、欧米市場の内需が新興市場に比べて停滞する状態が長引くという予想に立てば、中・長期的には、新興国市場の需要を開拓して主要な輸出先を欧米から新興国にシフトする産業構造改革や、経済成長の原動力を輸出に依存せず、日本の国内市場の消費や投資を原動力に内需主導の経済成長を実現することが必要である。年金や医療などの社会保障制度を改革して将来不安をなくし、安心して消費できる社会をつくることや、子育ての負担を軽減して人口の増加を図ることなどは、内需主導の経済成長を実現するための大きな課題と考えられる。
また、財政再建も日本にとって非常に重要な長期的課題である。このまま政府の債務が増え続ければ、金利の不安定な変動や行政サービスの縮小などによって、日本経済に大きな弊害を持続的にもたらす可能性が高い。現在、政府の純債務(政府の負債総額から金融資産を差し引いた額)は国内総生産(GDP)の70%前後とみられるが、現在のトレンドで政府債務が増え続ければ、純債務がGDPを超える日も遠くない。日本の財政は、これから長い間、主要国としては異例の、非常に不安定な財政構造が続くことになる。
新政権の政策の方向性
昨年の政権交代後、鳩山政権は、長期的な課題(内需主導の経済成長と財政再建)に取り組む姿勢を強く打ち出し、短期的な課題(公需の拡大や円安による外需の拡大)については、やや受け身の対応という印象である。矢ツ場ダムの建設凍結など、公共事業の縮減や、事業仕分けによる財政の無駄づかいの削減は、長期的な課題への対処としては、大筋で正しい方向性と思われる。しかし、これらの施策は、短期的には景気を冷やす。事業仕分けで歳出を削りながら、一方で、景気対策のために経済を刺激しなければならないといって補正予算で財政支出を増やすという政策の配分は、アクセルとブレーキを同時に踏むような印象を与える。その結果、鳩山政権の経済政策の基本的な方針が分かりにくくなっている。
本来、短期的には拡張型の財政政策と金融政策を推進して当面の失業問題などに対処し、中・長期的な制度改革(恒久的な補助金や税制など)は、内需型経済を実現することや財政再建と整合的な方向を目指す、という政策運営が求められる。現実の鳩山政権では、内需主導の経済構造への転換を志向する姿勢は一貫している。子ども手当の実現など「コンクリートから人へ」という政策路線はその姿勢を象徴している。一方、短期の景気対策については財政拡大を正面から主張することもできず、後手に回っている印象である。財政について短期には財政拡大を目指し中・長期には緊縮財政を目指す、という方向性は、一見、相矛盾した方向を志向しているようで、分かりにくい。おそらくそのために、国民に対して「短期的には財政拡大が必要である」という説明をせずに、長期的な財政緊縮のみを政権の方針として強調する結果になっているのではないだろうか。長期の財政再建だけを強調することは政治的には分かりやすいが、現実の財政政策は、不況の現実に背中を押される形で財政拡大を余儀なくされているのだから、やはり短期にどこまで財政を出すのかという点は大筋を国民に示す必要があるのではないだろうか。来年度予算が成立しても、景気の状況次第では、今年の春(参議院選挙の前)にはすぐに補正予算を組むという話も持ち上がるだろう。どこまでどの程度の財政支出や減税で景気を支えるのか、基本的な考え方を示す必要があるのではないだろうか。
短期の経済政策について(おそらく主に政治的な理由によって)なかなか方針を示せない中、日本銀行の金融政策に対する期待が高まっている。昨年11月に政府が「デフレ宣言」を行った後、日本銀行にもっと大規模な金融緩和を求める意見が経済評論家などの間で一気に強まった。しかし、日本が直面する短期的な課題は、リーマンショック後に、欧米経済が冷え込み、欧米への輸出が減ったこと、さらに、それに連動して円高が進み、輸出の回復が停滞していることである。外需が縮小する一方、日本国内の内需も回復しないので、日本経済は総需要(内需プラス外需)が総供給に対して過小になり、そのためデフレ(物価下落)が起きていると見るべきである。デフレが需要をさらに収縮させ、デフレが悪化するという「デフレスパイラル」の状況には至っていないと思われる(ちなみに、デフレが自己実現的に悪化するデフレスパイラルが日本経済にとって本当に現実的な脅威なのかどうか、という点については、学術的なレベルでは、理論的にも実証的にもはっきりしたコンセンサスはない)。
日銀の政策に期待が高まったのは、一層の金融緩和が実施されると円安が進むと考えられるからである。現在の問題が外需の不振と円高にあることを考えると、これは当然のことである。しかし、円安に誘導する手段としては、為替市場に対してなんらかの形で介入する為替介入や財政政策も有効である(拡張的な財政政策の結果、政府債務が増えれば、日本円に対する信認も揺らぎ、結果的に円安が進む)。ちなみに為替市場や財政政策は日本銀行ではなく政府が管轄する政策分野である。1月に菅直人氏が財務大臣に就任して早々、「円安が望ましい」と発言し、論議を呼んだ。口先介入が適切に実施されたか否かはともかく、景気回復のために円安がもっとも即効性があることは間違いない。
日銀の金融緩和であれ、政府の為替介入であれ、円安が実現できれば日本経済の回復には寄与するが、他国との関係を考えると簡単ではない。1990年代末から2000年代前半のように欧米経済が好調で日本だけが不況だったのなら円安誘導も欧米諸国から容認されたかもしれないが、現在のように欧米も日本も不況に苦しんでいるときには、日本だけが通貨を安くして輸出を増やそうとすれば、欧米諸国の輸出を減らし、欧米経済を傷つけることになる。
例えば、アメリカは中国などへの輸出を増やして景気回復につなげたいという思惑をあからさまに示しており、暗黙に、ドル安円高の方向を目指していると思われる。日本が金融政策や為替介入で大幅な円安を目指せば、アメリカ経済の利害と真っ向から衝突してしまう。欧米諸国と政策協調せずに円安を目指すなら、各国も対抗してドル安やユーロ安を目指す為替切り下げ競争(つまり、他国の犠牲において自国の輸出を増やし景気を浮揚させようとする近隣窮乏化政策)を誘発することになりかねない。日本はアメリカやヨーロッパと全面対決してまで円安誘導するという選択はできないだろう。円安が進む余地は限られ、金融政策も為替の口先介入も、劇的な効果がでるほどの政策は打てないということになる。
財政政策の課題
金融政策や為替政策であまり大胆な円安誘導はできないとすれば、外需の急拡大によって景気を浮揚させることは難しい。当面の総需要を増やす政策としては、財政政策が主力になることはやむを得ないだろう。
財政政策は、雇用対策や低所得者向けの福祉を充実して国民の安心感を高めるとともに、経済を成長させる長期的な方向性を明確にする必要がある。
そのキーワードはやはり「環境」ということになるのではないだろうか。
地球温暖化対策の国際交渉は今後も紆余曲折が予想される。しかし一つ確かなことは、化石燃料に依存した経済構造を改めて、再生可能エネルギー中心のかたちに日本と世界の経済を変えていくことは、長期的な日本の国益に合致するということである。
IEA(国際エネルギー機関)の世界エネルギー展望によれば、化石燃料の価格は長期的に上昇傾向が続く。石油依存の経済のままでは、石油が枯渇しなくても、このままいけば、日本は産油国に莫大な石油代金を支払わなければならなくなる。石油に依存しない産業構造を建設するための投資を行えば、その投資コストは国民の負担になるが、化石燃料の使用を減らせるので、石油代金などの外国への支払いは節約することができる。化石燃料に依存しない経済構造をつくり上げることが長期的に日本の産業界にとっても国民にとっても利益であることは間違いない。
政策としては、政府が財政資金を大規模に投資して環境技術の研究開発と普及を促進し、化石燃料に依存しない新しい産業構造と社会構造を創出することが必要だと言えるだろう。その過程で、公的部門や環境関連産業に大きな雇用が生み出されることになり、需要と供給のギャップを埋める景気対策にもなるはずである。新しい産業は経済の持続的な成長の原動力にもなる。
このような財政政策を考えた場合、問題は財源である。当面、政府がさらに債務を増やして財政支出をせざるを得ない。その結果、将来的には非常に大きな増税(環境税や消費税、あるいは一回限りの資産課税)をせざるを得ないし、もしそうできなければ、非常に高い率のインフレが発生し、政府の借金の実質額が下がることになる(インフレは経済学的には貨幣に対する課税であるから、これは事実上の増税と同じことである)。
こうした財政の調整は、古い産業構造から新しい経済に変化する際には避けられないことかもしれない。
私たちの財産の本質は、もとをたどれば古い産業構造を前提にしてつくられた資本設備である。新しい産業構造に経済が変化すれば、古い資本設備は無価値になる。つまり、私たち現世代の財産の相当部分が無価値になってしまうはずである。その代り、環境型の新しい産業が生まれ、そこから新しい富が生まれる。その新しい富の所有者は次世代の人々である。ちょうど、近代になって、農業社会から産業社会に経済構造が変化したことを思い浮かべればよい。かつては「農地」は大きな資産価値を持っていたが、産業化とともに農地の重要性は低下し、貨幣で測った農地の価値も大きく低下した。その代り、工場設備という新しい資産が生まれ、それらが大きな価値を持つようになった。いま、化石燃料に依存した20世紀型の産業社会から化石燃料に依存しない21世紀型の産業社会に変化するときにも、同じことが起きるはずである。
しかし、家計や投資家は、20世紀型産業の古い資本設備を直接保有しているのではなく、銀行預金など金融資産の形で保有している。産業構造が変わって古い資本設備が急に無価値になっても、銀行預金の価値は自動的には減価されない。銀行の貸出資産(20世紀型の資本設備)の価値が下がっても、銀行預金は公的資金によって保護されることになるからである。家計などが保有する資産(古い資本設備をその裏付けとして形成された銀行預金がその大きな部分を占める)の価値を産業構造の変化に合わせて減価させるには、大幅な資産課税かインフレで家計の保有資産を減らさざるを得ないのかもしれない。現世代の財産が一時的な資産増税やインフレで大きく減価することは、生産性が低くなった古い産業によってできた国富(いまは過大評価されている)を本来的な価値まで減価させるプロセスとして避けられないとみるべきではないだろうか。
また、環境産業を中心とした21世紀型の新しい産業構造ができれば、そこから大きな富が生み出されるため、うまくすれば財政が大破綻になることは避けられるはずである。長期的な経済社会の構造変化と整合的な財政政策を構想することが求められている。