・はじめに ・其の1:エビデンスで考える ・其の2:財政健全化の旗は降ろさない ・其の3:不作為を認めない ・其の4:「死に金」を「生き金」にする ・其の5:経済の新陳代謝を進める ・其の6:支え手を支える ・選挙を言い訳にしない |
はじめに
政治が俄かに騒がしくなっている。9月3日に菅総理は自民党総裁選への不出馬を唐突に表明し、総裁任期が終わった後の総理辞任が決まった。安倍総裁が誕生した2012年以来の結果の見えない総裁選に突入した。他方、新型コロナの変異株が猛威を振るっている。東京都の新規感染者数はピークを過ぎたようにみえるとはいえ、医療の逼迫は続いており、都内の自宅療養者は1万人(全国では13万人)を超えている。変異株の場合、若年世代でも重症化が顕著になっている上、ワクチンを接種していても発症リスクがある。政府・自治体は入院できない中等症患者等を対象に体育館やイベント会場などに所謂「野戦病院」を作る方針を打ち出すまでに至っている。新型コロナの感染が拡がってから既に1年半余りが過ぎた。ワクチン接種が進展しているにも関わらず、未だにその収束が見込めない。4回目の「緊急事態宣言」の対象地域は21都道府県に、「まん延防止等重点措置」の適用地域は12県まで拡大しており、その期限も延長された。現行の「特別措置法」では不十分として、感染の拡大を抑えるよう人流の抑制を目的に、全国知事会を含めて「ロックダウン」(都市封鎖・罰則付きの外出禁止命令等)を可能にする新たな法整備を要請する向きもある。
誰が総裁・総理になったとしても、コロナ禍への効果的な対策が求められる。それだけではない。新型コロナの感染拡大が「いまそこにある」危機とすれば、少子高齢化・人口減少に拠る社会保障給付費の増加(及び、財政悪化)や経済の低成長は「これからの危機」である。加えて、我が国はデフレ(物価の下落)という「これまでの危機」も克服できていない。この三重苦にどのように対処するか、次期政権の手腕が問われてくる。コロナ禍やデフレに限らず、東日本大震災など我が国は危機に直面する度に「当座しのぎ」に終始してきたように思われる(結果、多くの時間を「無為」に過ごすことになったのではないか?)。医療提供体制や雇用慣行、行政システムなど現行体制を前提に短期決戦と危機以前への回帰を志向した結果ともいえる。しかし、デフレは無論、コロナ禍との戦いはもはや長期戦の様相を呈している。とすれば、長期戦に耐えられるよう体制の見直し、即ち「構造改革」が必須であろう。危機だから改革を先送りするのではなく、危機だからこそ、その対応を構造改革に繋げていくことが望まれる。(何時かは定かではないにせよ)いずれコロナ禍は収束する。しかし、収束すればそれで万事解決というわけではない。コロナ後の我が国の経済・社会の在り様も視野に入れた「構造改革」にいまから着手する必要がある。本稿では新政権が取り組むべき改革として次の6点を挙げたい。
其の1:エビデンスで考える
「ロックダウン」を含めてコロナ禍のような非常時には著しい強制措置があって然るべきだろう。しかし、我が国は民主国家である以上、非常時とはいえ国民への「説明責任」が求められる。説明責任を伴わない強制は「強権」に過ぎない。ここでいう説明責任とは法律や制度の講釈などではない。恣意性ではなく、政策判断の客観性を担保するには「エビデンス(証拠)」を示す必要がある。その一つが感染者数の正しい把握だ。我が国では欧米諸国に比べてもPCR検査の数が増えてこなかった。検査の目的が感染状況の把握よりも「積極的疫学調査」として感染者の発見が重視されてきたことが背景にあろう。結果、濃厚接触者を含めて陽性の可能性の高い人に検査が絞られてきた。しかし、ロックダウンなどの政策判断に際して重要なのは感染の実態把握である。現状では感染者数や陽性率(検査対象のうち陽性になった者の割合)にはデータとしてバイアスがあることは否めない。また、東京オリンピックの開催に際しても、関係者など入国者の増加や会場近辺での人流の増加が感染の拡大に繋がったのではという懸念がある。しかし、大規模なイベントがどのように感染を拡げるのか、エピソードがあっても証拠が定かなわけではない。他方、英国政府はサッカーの欧州選手権等をワクチンの効果や興行での感染状況を確かめるための「イベント調査プログラム」と位置づけた。例えば、参加者にPCR検査をして陰性を確認した上で、後日、改めて検査を行って感染の有無を確かめる。仮にイベント等の自粛を求めるにしても、漠然とした「懸念」や(周りの)「空気」ではなく、こうした「証拠」に基づくべきだ。さもなければ、国民からの納得を得られないだけではなく、扇動された自粛警察紛いが横行することにもなりかねない。コロナ禍に限らず、社会保障や公共事業を含めて平時においても「証拠に基づく政策形成(EBPM)」を徹底させる必要がある。
其の2:財政健全化の旗は降ろさない
非常時に際して「いまは財政再建を考える時期ではない」との意見もある。本来、「平時」における健全な財政が、「非常時」における財政出動の「余力」の確保に繋がる。我が国の財政再建は拙速だったのではなく、遅きに失したのである。いずれにせよコロナ禍とその経済対策は、今後とも大規模な財政出動を余儀なくさせるだろう。当面は赤字国債等で賄うとしても、野放図に財政が膨張すればコロナ禍が財政危機に「転化」するリスクも否めない。コロナ対策として財政を拡大させるとしても、歳出規模を「コントロール」できる体制は整えるべきだ。コロナに係る事業を精査する(例えば、持続化給付金など非常時の事業を恒久化させないようにする)他、既存の事業の中に不要不急があれば、それらの執行を当面見送る。財政の拡大は「一時的」であり、コロナ禍に係る助成金・事業等は収束後、原則全て廃止する。非常時財政を恒常化させない。コロナ禍で顕在化した新たな財政ニーズは、他の政策を見直すことで平時では「財政中立」を原則とする。大規模な「財政出動」が求められるからこそ、これを効果的・持続可能にするためにも「財政規律」を失ってはならない。
其の3:不作為を認めない
コロナ禍は我が国の構造的な課題を露呈させた。諸外国に比べて感染者数が少ないにも関わらず、医療が逼迫する背景には医療機関(病院・診療所)の間での連携・役割分担の欠如がある。医療機関の連携としては既に「地域医療構想」があり、高齢化や人口減少を見越して病床の機能転換などが図られていた。しかし、地域の医師等が参加する地域医療調整会議においては、見直しが遅々として進まない中でコロナ禍を迎えた経緯がある。加えて現場では個人情報保護法・条例が厳しめに「解釈」された結果、患者情報の共有も難しいままになっている。「オンライン診療」も同様だ。非常時の対応として当面の間、初診からの「オンライン診療」が認められるようになった。オンライン診療については2018年度から本格的に導入されたものの、患者との対面診療が原則であり、オンライン診療はあくまで補完とされ、コロナ以前は範囲が厳しく限られていた。「対面でなければ正しい診断が難しい」、「患者情報が流出する」などが理由とされていた。いずれも安全性を重視したものだが、こうした平時のリスクを重んじるあまり、コロナ感染拡大という非常時のリスクへの対応が遅れる結果になった。経済・社会の先行きが不透明であればこそ、医療を含む行政の「不作為」はあってはならない。現状維持が志向され易いが、コロナ禍は現状が維持可能でないことを示した。不作為はそれ自体が社会にとってのリスクなのである。
其の4:「死に金」を「生き金」にする
我が国は約2千兆円に上るといわれる潤沢な金融資産を抱えてきた。将来の持続的な成長に繋がる分野に投資されるならば、この資産は「生き金」になろう。実際のところ、その多くは国債等に充てられてきた。民間からすれば安全性を重んじた結果だろう。しかし、民間の「カネ余り」を国が財政赤字(=国債の発行)で吸収して、これを給付や補助金といった形で民間に戻す(新たな貯蓄の原資になる)だけなら、こうした資産は「死に金」に等しい。「死に金」が経済を循環するだけならば、デフレ脱却は望めないだけではなく、中長期的には経済は「ジリ貧」になってしまう。これを転換して将来の成長に繋げられるかがカギになろう。従前、金融機関が企業等に資金を融資するにあたっては設備・土地などを含む実物資産の担保を求めてきた。つまり、融資の基準は「モノ」であった。そのため、デフレで地価等の担保の価格が下落すると企業の資金調達が困難になり、設備投資や技術革新が進まなくなった。結果として経済が更に停滞する悪循環に陥ることになった。(知的財産等)無形資産が増えるデジタル経済において経済の成長に寄与するのはモノではなく人材=「ヒト」であろう。新興(ベンチャー)企業の成否を決めるのも、経営者の能力だ。我が国は「カネ余り」に加えて「カネ詰まり」の状態ともいえる。即ち、将来性のある人材と彼等が担う事業・分野に必要な資金が行き渡っていない。モノ=担保に代えてヒト=人材への評価に基づく資金を提供する仕組みの構築が望まれる。
其の5:経済の新陳代謝を進める
政府は(雇用調整助成金や持続化給付金を含め)感染拡大の影響を受ける中小・零細企業などへの支援策を打ち出してきた。しかし、新型コロナウイルスのような災害は新たな問題を引き起こすだけでなく、平時の構造的な課題を露呈する面もある。具体的には中小企業の新陳代謝の欠如だ。支援には以前から業績が低迷し、いずれ撤退したはずの企業も含まれよう。そもそも経営者の高齢化が進み、後継者の確保もままならない企業も少なくない。手厚い支援はこうした企業の延命に繋がる懸念がある。実際、我が国の企業の廃業率・開業率は諸外国に比べて低い水準に留まってきた。問題を「先送り」しているだけなら、一連の支援が終わってしまえば、経営が立ち行かなくなる。新型コロナウイルスを含む自然災害は我が国で多発してきた。しかし、災害からの復旧に向けた経済対策が、経済の新陳代謝の機会を失わせることは、中長期的に生産性を低迷させ、経済の成長を損ねかねない。無論、「弱者切り捨て」は避けるべきだ。既存の中小企業政策は事業の継続に偏ってきた。対照的に災害などを機に「廃業」を選ぶ経営者などへの支援は乏しい。これを契機に廃業支援の新たな助成制度を創設することも一案だ。中小企業=組織ではなく、その技術の継承やヒト=経営者・労働者の支援に対策の軸を転換する時期にきているのではないか?
其の6:支え手を支える
コロナ禍を通じて世界的にも資産・所得の格差が顕著になっている。その是正には富裕層に課税するだけでは十分ではない。低所得層等へのセーフティーネットが必要だ。公的年金・生活保護を含めて既存のセーフティーネットは就労していない、あるいは就労が困難な家計を前提にしていた。そのため、勤労世代など社会の「支え手」を「支える」セーフティーネットに欠いていた。他方、諸外国では「勤労税額控除」(所謂「給付付き税額控除」)などとして実施されている。コロナ禍においても勤労世帯への支援としてこれらが活用されてきた。菅政権では自助が先で、そのあと、共助や公助と順序付けられてきたが、自助を「支える」公助があっても良い。コロナ禍は平時からの社会的弱者のみならず、平時の支え手の生活も直撃した。こうした「救済の必要な個人を確実に救済」するのは再分配=格差是正に留まらず、将来の成長の担い手を守り、社会の分断を回避することになろう。併せて、非常時に際しては家計・事業者に対して平時の所得(所得税の確定申告に基づく)の一定割合を補填するような仕組みを構築する。休業協力金や持続化給付金などその場になってからアドホックに対応するよりも彼等の安心にも繋がろう。平時に正しく所得を確定申告した者が報われる仕組みにもなる。
選挙を言い訳にしない
自民党の総裁選挙が終われば、10月には衆議院選挙が始まる。しばしば、「選挙があるから財政再建を含めて、痛みを伴うような構造改革はできない」との声を霞が関やメディアで聞くことがある。改革の必要性について、政府は「知らしむべからず」を、国民は「知らぬが仏」を決め込んでいることは否めない。しかし、選挙は民主主義の「常」であり、これを改革の足かせ(制約)と見做すのは、民主主義自体を毀損することにならないか?選挙があるから改革を先送りするのではなく、選挙があればこそ、国民に改革を問う機会とするのが民主主義の本来あるべき姿だろう。政府はワクチン接種の進捗を見極めつつ、今秋から段階的に行動制限を緩和する方針だ。他方、医療の逼迫への懸念が残る。経済と医療の持続性を高める改革があってこそ両者は両立できると思われる。