・自然利子率の低下と金融政策の限界 ・ECBによるグリーン債購入の可能性 ・FRBによる所得分配の考慮 ・日銀による大学債購入案など |
自然利子率の低下と金融政策の限界
筆者は本シリーズ第2回「コロナ禍で変わる中央銀行の役割」において、現在の中央銀行が果している役割は狭義の金融政策、すなわち2%のインフレ目標達成に代表されるようなマクロ経済の安定よりも、金融システムの安定や財政ファイナンスに移ってきていると論じた。金融政策がマクロ経済の安定化への影響力を失っているのは、日本銀行だけではなく、主要国の中央銀行がいずれもゼロ金利(ないし小幅のマイナス金利)という制約に直面しているためだが、さらにその背後には完全雇用の下で貯蓄と投資が均衡する自然利子率(natural interest rates)が低下しているという事実がある[1]。近年注目されているサマーズらの長期停滞論についても、その原因が需要サイド(デジタル企業の投資不足、新興国の貯蓄過剰、所得格差の拡大など)にあれ、供給要因(人口減少、技術革新の鈍化など)にあれ、自然利子率の低下に帰着することはこれまで繰り返し述べたとおりである。
通常、金融政策は自然利子率を所与として、市場利子率を操作することでマクロ経済に影響を及ぼすと考えられている。例えば、市場利子率を自然利子率以下に誘導すれば、景気を刺激することができるという具合だ。だが、自然利子率が大きく低下すると、市場利子率を大幅なマイナスにできない限り(それは紙幣が存在する限り難しい)、金融緩和による景気刺激効果は大きく減殺されてしまう。もちろん、重要なのは実質利子率だから、インフレ期待を高めることができれば金融緩和は効果を持ち得るが、大胆な金融緩和でもインフレ期待は簡単には高まらないことは日銀の「異次元緩和」が証明してしまった[2]。また、コロナ・ショック直前の日米の経験は、失業率が歴史的な低水準となっても、賃金・物価がなかなか上がらなくなってきたことをも示している。
こうした中で注目すべきは、主要国の中央銀行において、物価安定以外の目的に金融政策を使うという考え方が浮上しつつあることだ。率直に言って、物価安定さえ実現できないのに、金融政策でそれ以外の目的を追求するのは無茶な試みのように思われる。しかし、こうした試みは金融政策で自然利子率に影響を与える狙いを持つものと解釈することも不可能ではない。実際、金融政策で自然利子率を押し上げることが可能ならば、それは金融政策の有効性を回復することにもつながる筈である。以下では、金融政策に新領域があり得るのか否かについて考えてみたい。
ECBによるグリーン債購入の可能性
一般に自然利子率を決めるのは、民間と政府の貯蓄・投資行動であり、そこに中央銀行が関与する余地はない。だからこそ、通常は自然利子率を所与として、中央銀行は市場利子率の操作に専念するのだ[3]。ただし、「市場の失敗」や「政府の失敗」がある場合には、金融政策が自然利子率に影響を及ぼすことで、経済厚生上望ましい結果につながる可能性も考えられる。
この関連で現在最も注目を集めているのは、欧州中央銀行(ECB)がグリーン債(環境分野への取り組みに特化した資金を調達するために発行される債券)を購入する可能性だろう。ECBのラガルド総裁は、2019年まで国際通貨基金(IMF)の専務理事を務めていたという経歴もあって以前から気候変動問題を重視していることが知られていたが、2020年9月にシュナーベル専務理事がその可能性を示唆したことで、グリーンQE(量的緩和)、金融政策のグリーン化などとして注目されているのである。これは、資源配分に中立的な金融政策という伝統的理念には反するが、気候変動という「市場の失敗」への対応であり、フォン・デア・ライエン委員長の下で欧州連合(EU)がグリーン・リカバリーを経済政策の柱に掲げていることとも整合的な動きと言える。しかも、EUの政策をECBが支援するという一方向のものではなく、ECBの観点からはグリーン・リカバリーによってグリーン投資が高まれば、自然利子率が上昇して金融政策の有効性回復に資することを期待しているとも考えられる。日本でも、菅首相が2050年までの脱カーボン化の目標を掲げたことで、日銀が今後同様の方向を目指す可能性もあり得よう。
なお、ここで自然利子率と潜在成長率の関係について少し触れておくのが適切だろう。長い眼でみると両者は密接な関係にあり、経済成長論の枠組みでは一定の前提の下では一致することが知られている[4]。しかし、短期的に両者が一致する保証はない。これは、政府が公共投資で景気刺激を試みるケースを考えれば分かり易い。この場合、貯蓄と投資を一致させる自然利子率は短期的に上昇するが、それが潜在成長率を高めるとは限らないからだ(1990年代の日本では、非効率な公共事業による景気対策が繰り返された結果、潜在成長率はむしろ低下してしまった)。この点、現在の日本ではデジタル化とグリーン化が成長戦略の2本柱と考えられているが、両者の自然利子率への影響は大きく異なるかも知れない。
まずデジタル化については、ゴードンらの有力な異論[5]はあるが、潜在成長率を高める可能性があると考えるのが自然だろう。とりわけ、デジタル化の遅れが目立つ日本では、デジタル化の推進が生産性の向上に寄与する可能性が高い。しかし、これが短期的に自然利子率を高める保証はない。現にサマーズなどは、デジタル企業は実物投資をあまり必要とせず、内部留保を貯め込む傾向がある一方[6]、デジタル化に伴う所得格差の拡大はマクロ的な貯蓄率上昇につながるため、長期停滞=自然利子率の低下要因になると考えている。これに対しグリーン化は経済活動に制約を課すものだから、それが潜在成長率を高めるか否かは定かでないが、官民双方によるグリーン投資を促すことで、少なくとも短期的には自然利子率を高める可能性が高いのではないかと思われる。
FRBによる所得分配の考慮
一方、連邦準備理事会(FRB)は2020年8月に金融政策戦略に関する見直しの結果を公表したが、それは平均インフレ率目標の導入による2%目標へのコミットメントの強化が主眼であり、特段金融政策の新たな領域が追求されている様子はない。このコミットメント強化について筆者は、日銀の「異次元緩和」の失敗を踏まえると、明確な目標達成手段を欠く限り大きな効果は期待し難いとの見解を述べた[7]が、最近もパウエル議長を先頭にFRB高官が財政政策によるサポートを求める発言を繰り返していることからみて、FRB自身効力にあまり自信がないのであろう。こうした中、上記見直し作業に関連して公表された論文の中に所得格差是正を考慮したもの[8]が含まれていたため、バイデン次期大統領がFRBに対して従来の物価安定と雇用の極大化に加えて、人種間格差を含めた所得格差是正を求める発言をしたことと相俟って、FRBが金融政策運営において所得格差是正を意識するのでないかとの思惑が浮上している。
この論文自体は、標準的なニューケインジアン・モデルに複数のタイプの家計を導入する(HANKモデルと呼ばれる)ことで所得分配の効果を分析したものである。具体的には、粘り強く金融緩和を続けると、低所得者の雇用が改善し、そのことを通じて金融緩和の効果も強まると主張しており、FRBの平均インフレ率目標をサポートする結果と言える。ただ、サマーズのように所得格差を自然利子率低下の一因と考えるなら、所得の平等化を通じて自然利子率を押し上げる政策と解釈することも可能だろう。実際、コロナ前の日本や米国では、超金融緩和の長期化の下で、失業率が歴史的低水準となった結果、日本では不本意非正規雇用の減少、米国ではマイノリティーの雇用が改善したという事実が認められる。
しかし、ニューケインジアン・モデルの欠点は資産価格を考慮していない(考慮していても資産バブルの可能性は排除されている)ことにある。現実のコロナ前の経済を思い出すと、確かに失業率は歴史的水準まで下がったが、中所得層以下の賃金は殆ど上がらなかった一方、資産価格の上昇によって富裕層の富が膨れ上がったというものだった。超金融緩和の長期化が所得分配の是正、ひいては自然利子率の上昇につながる保証はないと考えられる[9]。
日銀による大学債購入案など
日銀は2020年12月の金融政策決定会合で、予想された通り企業金融の支援策の延長を決めるとともに、2%の物価目標を達成するための「効果的で持続的な金融緩の点検」を2021年3月までに行なうと表明したが、後者の内容は明らかになっていない。コロナ・ショック直後の世界的な金融市場の混乱時に大胆なオペや企業金融支援策を打ち出した後は、「青天井」とした筈の長期国債買い入れは年間10~20兆円ペースに止まり、年間12兆円とした上場投資信託(ETF)の購入もこれを大きく下回るなど、コロナ前のステルス正常化モードに戻っているようである[10]。
一方、筆者自身が長年の友人である経済学者から問われたのは、日銀が大学債を購入する可能性だった。当初はやや奇異な印象を受けたが、よく考えてみると必ずしも無理筋ではない。と言うのも、高齢化が進む日本では社会保障費の累増が続いているが、消費税の引き上げがなかなか進まないという事情もあって、財源が十分確保できず、結果的に他の予算が軒並み圧迫されている。その代表が教育・研究費だ。ノーベル賞受賞者らの指摘を俟つまでもなく、このままでは日本の科学技術が米国や中国などから取り残されてしまう恐れがあり、現状は大いに憂うべきだが[11]、教育・研究予算だけを増やすのは政治的に難しい。この「政府の失敗」を日銀が補うというアイデアである。実は、日銀には2010年に「成長基盤強化を支援するための資金供給」という、今から考えれば自然利子率の引き上げを狙ったスキームを先駆的に導入した経緯がある。
もちろん、ECBのグリーン債購入や日銀の大学債購入といった政策が本当に有効かどうかは定かでない。だが、これまで各国中央銀行は量的緩和やマイナス金利政策など、事前には効果が明らかでなかった政策を何度も試してきた。そして今、「出口」における中央銀行財務の毀損(最終的には国民負担となる)を別にしても、量的緩和に伴う財政規律の弛緩や、マイナス金利がもたらす金融機関の収益性悪化など、非伝統的金融緩和の副作用が明らかになってきている。恐らくグリーン債や大学債を購入しても、副作用はそれ程大きくないように思える(因みに、東大債は高い債券格付けを取得している)。ならば、自然利子率を押し上げる金融政策という新領域に挑戦する価値はあるのではないだろうか。
[1] 自然利子率の推計については、Laubach-Williams[2003]”Measuring the Natural Rate of Interest”, Review of Economics and Statistics以来数多くの計測結果が示されおり、例えば、日本では2016年9月の日銀による「総括的検証」の際にも、岩崎・須藤ほか[2016]「わが国における自然利子率の動向」(日銀リサーチラボ・シリーズ)が補足ペーパーとして示された。なお、Laubach-Williamsのウィリアムズ氏が現在ニューヨーク連邦準備銀行の総裁を務めているという事情もあって、同行のホームページには米国の自然利子率の最新の推計値が随時公表されている。Measuring the Natural Rate of Interest - FEDERAL RESERVE BANK of NEW YORK (newyorkfed.org)
[2] 日銀は、2016年9月の「総括的検証」においてインフレ期待が適応的(adaptive)であることを強調したが、これは強力な金融緩和を行なってもインフレ期待は大きく動かなかったという事実を認めたことに他ならない。
[3] 「市場利子率」と言う時、普通は短期利子率を意味するが、日銀はイールドカーブ・コントロールの導入によって、長期利子率を政策の操作対象に変更した。最近はFRBなどもフォワード・ガンダンスの強化により長期利子率を強く意識するようになっている。これには、中央銀行が財政ファイナンスの役割を強めている結果という面もある。
[4] 小田・村永[2003]「自然利子率について:理論整理と計測」、日本銀行ワーキングペーパーシリーズ。
[5] 実証マクロ経済学の泰斗であるノースウェスタン大学のゴードン教授は、電力や内燃機関の利用がもたらした第二次産業革命に比べ、IT化、デジタル化の生産性向上効果は小さかったと主張している。
[6] GAFAなどは実物投資は少なくてもM&Aには熱心である。しかし、M&Aは既存資産の購入であるため、マクロ経済的には投資を意味しない。
[7] 本シリーズ第5回「ポスト・コロナの経済政策レジームを考える(下)」。
[8] Feiveson-Goernemann et al[2020]“Distributional Considerations for Monetary Policy Strategy”, Finance and Economics Discussion Series, Federal Reserve Board
[9] 数年前、超金融緩和を長く続けることで潜在成長率、ないし自然利子率を高めることができるという「高圧経済論」が一部で流行したことがあった。当時のイエレンFRB議長(バイデン政権の次期財務長官)も一時そうした発言をしたことがあったし、2017年頃には日銀関係者からしばしば「高圧経済論」の主張が聞かれた。しかし、この間日本でも米国でも、潜在成長率、自然利子率がともに低下を続けていた。
[10] 日銀のステルス正常化政策に関しては、本シリーズ第6回「日銀金融緩和の変質と残された歪み」を参照。
[11] この点については、例えば豊田長康[2019]『科学立国の危機』、東洋経済新報社を参照。