R-2021-042
2022年1月7日、政府が「教育データ利活用ロードマップ」を公表した。誰もが・いつでも・どこでも・誰とでも学べる「教育のデジタル化」社会を2030年ごろには実現したいという。教室の風景どころか、教員の働き方や役割、ひいては日本の学校教育のあり方を根底から変えてしまおうかという壮大な構想だ。教育の場ではこれまでも通信や映像のデジタル化が進められてきたが、今回の「教育のデジタル化」はスケールが違う。実現は本当に可能なのだろうか。
・キラキラした未来図 ・コロナ禍を追い風に1人1台端末実現 ・自分の頭で考えなくていい ・教員の役割が変わる |
キラキラした未来図
ロードマップは、デジタル庁、総務省、文部科学省、経済産業省の連名で作成された。「デジタルの活用により、一人一人のニーズに合ったサービスを選ぶことができ、多様な幸せが実現できる社会〜誰一人取り残されない、人に優しいデジタル化」を目標に掲げている。閣議決定された「デジタル社会の実現に向けた改革の基本方針」(2020年12月25日)で明記されたビジョンを踏襲した文言だ。生涯学習を見据えつつ、まずはICTをフル活用し、子どもが主体的に学べ、そうした子どもと教職員が向き合える環境をつくり出したいとする。「チョーク&トーク」の一斉型授業を中心とする現状への問題意識が、ロードマップからはうかがえる。
それを端的に表すのが、ロードマップに添えられたこぎれいなポンチ絵だ。何を問題視しているのかを表にまとめてみた。こうして見てみると、学校だけでなく日本社会の現状も「時代遅れ」と認識していることがわかる。
*PDS(Personal Data Store):自分の個人情報を、自分の意思で他人と共有して活用するための仕組み。
ポンチ絵の中心にいるのは男性教員。チョークで板書という昔ながらの「労役」に追われている。授業準備も紙の教材で手がかかるし、宿題やテストの採点も一枚一枚、手作業だ。校務負担も色々とあるが、データ化されていない資料、情報とにらめっこ。時間的、地理的な制約で外との交流が持ちづらい。一方の子どもたちは、膨大な教材で知識のインプットを強いられるから、同級生たちとの議論や互いの考えを知る機会が限られる。学びの軌跡が紙ベースの記録にとどまるため、転校・進学時にも困難が生じる——。
八方塞がりともいえる今の学校に「デジタル化」を持ち込み、みんなでハッピーになろうよ。平たく言えば、そんな発想のように見える。
ロードマップはさらにうたう。一斉型授業が返上され、学習指導要領の掲げる「主体的・対話的で深い学び」が現実のものとなる。つまり、子どもたちは端末を使って、自分の理解度を自分で認識できる。端末や大画面上で子ども同士の意見が共有でき、効果的な協働学習も期待できる。何に興味を持ち、どう検索し、何を選んだか。練習問題にはどのぐらい時間をかけ、どんな間違いをしたか。誰とどんな意見のやりとりをしたか…学習履歴は全てデータで管理されているので、学習上のつまずきを解消しやすいし、転校・進学してもスムーズに学びを継続できる。履歴をもとに、いつでもどこでも、大人になっても学び直せる社会になる。
教員の負担も一気に軽減されるという。授業に使える素材を端末検索で収集でき、宿題やテストの採点も自動化されるから手間が省け、子どもへのフィードバックに専念できる。公務負担もむろん軽減。時間的な余裕ができて、外部の専門家との交流で教職へのモチベーションを高められる。
ロードマップによると、時代を変える鍵がすなわち「教育のデジタル化」なのだ。
コロナ禍を追い風に1人1台端末実現
その起点となったのは、2020年に動きが具体化した「GIGAスクール構想」だ。全国の小中学生に1人1台の端末を貸与し、端末使用を可能にする高速大容量通信網を一体的に整備しようというもので、計約4600億円の国費を投じて2021年4月、ほぼ完成したとされている。
構想の当初からすでに、学校教育の現状への危機感は強く打ち出されていた。2019年12月の閣議決定後、萩生田光一文科大臣(当時)は次のようにメッセージを発した。
「PC端末は鉛筆やノートと並ぶマストアイテムです。今や、仕事でも家庭でも、社会のあらゆる場所でICTの活用が日常のものとなっています。社会を生き抜く力を育み、子供たちの可能性を広げる場所である学校が、時代に取り残され、世界からも遅れたままではいられません」
学校は「時代に取り残され、世界からも遅れたまま」の存在なのだ。
1人1台端末自体は新しい考えではない。ルーツを探っていくと、2000年に森喜朗首相(当時)が提唱した「IT革命の推進による日本新生」にたどりつく。目的達成のためにIT基本法(高度情報通信ネットワーク社会形成基本法)が制定され、翌年、政府は「e-Japan戦略」を打ち出し、世界最先端のIT国家を5年以内に実現するとぶち上げた。「IT」という一般用語はまもなく総務省の造語「ICT」にとって変わられるものの、各省庁は競って「日本新生」の政策を策定した。
教育分野では、学校内のインターネット接続率や校内LAN(通信網)整備率、コンピューターを使った授業が可能な教員の割合などを「100%」にすることが盛り込まれた。いずれも達成されなかったが、電子黒板の普及や教科書のデジタル化なども議論された経緯から、総務省は文科省の協力を得て2010年度、「フューチャースクール推進事業」に着手した。それは、学校ICT化の実証実験だ。各地の小学校10校、2011年度には中学校8校と特別支援学校2校の子どもたちに1人1台の端末を貸与し、すべての教室に電子黒板を設け、無線LANも構築した。
しかし鳴り物入りの実験は、民主党政権下で行われた2010年の事業仕分けで「廃止」とされた。実験の持つ唐突感に、有識者から厳しい批判が出されたからだ。
「現状のような文科省と総務省の縦割分担のスキームでは、目標設定も効果分析も十分にできない」
「1人1台の全学級導入は、現在の財政状況では不可能」
「本プロジェクトのようにいきなり『ICT機器を学校に配布』のような短絡的に行動する以前に、『なぜ日本の学校でICT活用が遅れているのかの要因を見出すための調査・研究』が先行すべき」…。
そうして事業は2013年度に廃止されたものの、同じ年、今度は自民党政権下で「世界最先端IT国家創造宣言」が閣議決定され、改めて1人1台の端末、デジタル教科書など教育環境のI T化を2020年までに実現することが唱われた。
目標設定や効果分析の不十分さなど、事業仕分けの際に出た批判は、実は、一応の達成を見た今回の1人1台端末貸与にも当てはまるものだ。だが、それを封じたのが新型コロナウイルスの感染拡大だった。2020年2月、突然に発出された政府による全学校の一斉休校措置で登校できなくなった子どもやその保護者の悲鳴を追い風に、一気呵成に1人1台端末が現出したのだ。だが、それによって、期待されたような「変化」は現れてきているのだろうか。
自分の頭で考えなくていい
衝撃的な「変化」のありようの一端を、文科省のサイトで見ることができる。「学校における1人1台端末環境」公式プロモーション動画だ。
動画では、子どもたちの学びの風景がどれほどアクティブで創意工夫に満ちているかを強調して映し出す。音楽を作る女の子がいれば、ブロックで組み立てた電車にブレーキ機能をつける男の子もいる。解説役の校長が「(端末があることで)子どもに応じたコンテンツや教材を配信できますので…いろんな生徒に対応した授業が実現できます」とそのメリットを語る。問題と思う場面はその直後だ。別の女の子が出てきてこう言う。
「(タブレットがないと)自分で全部、頭で考えないといけない。(タブレットがあると)問題を間違えると、説明があって少しずつ進められる」
つまり、タブレットがあれば、自分の頭を使わなくてもいい、ということだ。考えることは無駄なのか。こうなると、冒頭に見せてくれた創意工夫の数々も、ひょっとしたら、そっくり端末が教えてくれたものではないかと勘ぐりたくなる。
端末を使うことで、子どもの力はどう伸びるのか。気になるデータがある。経済協力開発機構(OECD)の調査で、学校で生徒1人あたりのパソコン設置台数を増やした国ほど、成績が下落傾向にあると報じられているのだ(2015年9月15日付読売新聞夕刊)。OECDは、各国の15歳を対象に、読解力や数学・科学の応用力を測る国際学習到達度調査(PISA)を行なっている。報じられたのは、2003年と2012年調査に参加した39か国の成績の変化と学校へのパソコン設置台数との関係ででた結果。生徒1人当たりの設置台数を増やした国で数学的応用力が下がっていたのだ。ネット上の情報を読み取って分析するデジタル読解力についても、使用頻度の高い生徒やほとんど使わない生徒よりも、「週1、2回」程度使う生徒の方が高いという結果が出ていた。
記事によると、OECD担当者は「学力の向上は、パソコンの整備よりも効果的な使用の方が重要ということではないか」と話したという。
日本の15歳の成績が低くなかったこともあって、この記事は大きな話題にはならなかったようだ。だが、1人1台を実現した今、果たして対岸の火事として済ませていいのか。公式プロモーション動画での女の子のコメントは、何を物語っているのだろうか。
教員の役割が変わる
冒頭の問いに戻ろう。教育のデジタル化は可能か。
もしこれが、過去に経験した通信や映像のデジタル化と同じ文脈での問いかけとすれば、答えはイエスだ。音声、情報がアナログ信号からデジタル信号に変換され、黒電話ではなくスマホで送れるようになった。VHSはDVDやブルーレイに取って代わられた。つまり道具・手段という意味でのデジタル化だ。
政府が狙う今回の「教育のデジタル化」は次元の違うものだろう。ロードマップの最終ページには、「今後の進め方」として、はっきり「デジタルやデータはあくまで手段であり、目的はミッションに掲げた『誰もが、いつでもどこからでも、誰とでも、自分らしく学べる社会』の実現である」と書かれているからだ。教育そのもののデジタル化を目指していると受け止められる。
ロードマップはさらに新しい社会で生きていく子どもたちに必要な力として、「文章の意味を正確に理解する読解力」「自分の頭で考えて表現する力」「対話や協働を通じて新しい解や納得解を生み出す力」を挙げている。これらについて異論はない。だが、その力をつけるために「デジタル化」がふさわしいのか、今の学校教育の何が問題なのかを検証する必要があるだろう。
まずは日常の学校生活で営まれている「教育」の丁寧な解析だ。中でも大きいのは、それを担う教員の「役割」をどう考えるかではないか。デジタル化が進む学校現場で拾われてくる様々な声は、教員に求められるものの変化を如実に伝えてくるからだ。
「先生に教えてもらうと冷やかされることもあるけれど、間違えるとパソコンが一つ一つアドバイスをくれるのが便利」(2008年9月17日付読売新聞、ICT先進地区、東京都日野市の小学校の児童)
「AIドリルの方が解説が詳しいので、苦手なところも克服しやすい」(2020年12月16日付読売新聞、名古屋市立小学校6年1組の児童)
「一人一人が学ぶ方法を主体的に選び、教師はアドバイザーとして支援する」(同、同小学校の校長)
これからの時代、「教員」は何を果たすべきだろうか。その役割は、養成・採用・実働・研修など、長い年月をかけて積み上げられてきた日本の制度そのものに深く根ざしている。当然、見直しが必要になってくるし、それ以前に、社会や国が学校教育に求めるものはそもそも何なのかという歴史的総括は欠かせない。これまで築いてきた教育の蓄積を精緻に振り返る道のりで、時代を変える鍵としての「教育のデジタル化」の可能性を探っていきたい。
参考
「教育データ利活用ロードマップ」
https://cio.go.jp/sites/default/files/uploads/documents/digital/20220107_news_education_01.pdf
「学校における1人1台端末環境」公式プロモーション動画
https://www.youtube.com/watch?v=K0wxp_vyRKM
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