菅義偉・新政権が掲げる政策の最優先課題は、「デジタル庁」の創設だ。この政策が重要であることは明らかだが、かつての森喜朗・政権が日本型IT社会の実現を目指して2000年に打ち出した「e-Japan構想」から20年もの時間を経ても実現しなかった理由は何か。プライバシー権の保護という問題が従来から存在するが、それ以外の要因もある。同じ失敗を繰り返さないためには、デジタル政府を構築する「真の目的」を政治が明確に打ち出すことが最も重要である。
そもそも、デジタル政府は「手段」に過ぎず、「目的」ではない。経済全体の資源配分は、基本的に市場メカニズムに基づいて行われている。しかしながら、市場は万能とは限らず、「市場の失敗」が度々発生し、政府介入の必要性が出てくる。このために政府は様々な活動を行っているが、財政という視点では、3つの役割に分類される。すなわち、①資源配分機能、②再分配機能、③経済安定化機能という「財政の3機能」である。
資源配分機能とは、民間では供給ができない公共財を供給する機能であり、再分配機能とは、市場メカニズムで分配された所得を、格差是正のため、財政(例:税制や社会保障)で再分配する機能である。また、経済安定化機能とは、財政政策や累進的な所得税制(ビルト・イン・スタビライザーの機能)などを利用し、好況・不況による景気変動を小さくする機能である。
この3つの機能のうち最も重要な機能なのは「再分配機能」であり、それは、政府情報システムに関連するIT予算(「デジタル・ガバメント推進標準ガイドライン」が定める「政府情報システム」に係る経費)の現状からも把握できる。
例えば、2016年度におけるIT予算のうち第1位と第2位の予算を所管する官庁が何か分かるだろうか。図表から一目瞭然だが、第1位は厚労省の約1884億円、第2位は財務省の約809億円となる。厚労省のIT予算の上位は基礎年金番号管理システムといった年金・医療や雇用保険に関係するものが占め、財務省のIT予算の上位は国税総合管理システムといった税制に関するものが多い。2016年度のIT予算5354億円のうち、厚労省と財務省のIT予算のみで全体の約50%を占める。
これは何を意味するのか。それは、デジタル政府の議論は、社会保障制度や税制といった再分配の仕組みと一体的なものであり、これらとの関係を抜きに議論することはできないということだ。
そもそも、わが国の再分配機能は様々な問題を抱えている。それが誰の目にも明らかな姿で露呈したのが、新型コロナウイルスの感染拡大に伴う緊急経済対策で、10万円の現金給付を行おうとしたときである。アメリカやオーストラリア・韓国などの国々と異なり、日本は迅速かつ的確に現金給付を行うことができなかった。その理由は、デジタル政府の核心(コア)は「プッシュ型・行政サービス」であるにもかかわらず、それに政治が本気で取り組んでこなかったからである。
また、「改革の哲学」が不明確なのも問題だ。拙著『日本経済の再構築』(日本経済新聞出版社)第8章では、「改革の哲学」の一つとして、「透明かつ簡素なデジタル政府を構築し、確実な給付と負担の公平性を実現する」という哲学を提案している。
このうち、「確実な給付」という言葉が有する意味は深い。従来型の行政は「プル型」で、国民が行政側に相談や申請をしてはじめて、行政手続き等がスタートする仕組みであり、行政手続き等のアプローチの起点が国民側にあるが、「プッシュ型」は「プル型」の逆の仕組みでアプローチの起点が行政側にある。
現状では、制度改正したために受けられる給付や減税を気づかずにいるケースも多いが、利用者の年収や年齢、家族構成や配偶者の年収、振込み先の銀行口座などを事前に登録しておけば、年収や年齢を条件とする手当が制度改正で新設された場合、給付額の通知や銀行口座への振込みなどをスムーズに行うことができ、社会保障関係の給付や税制上の還付を含め、申請漏れで本来は受給可能な手当を受給し損ねる事態も回避できる。
もっとも、それを可能にするためには、利用者である国民に、デジタル政府の専用サイトに必要な情報を事前に登録してもらう必要がある。日本では2016年1月から「マイナンバー制度」が動き始めているが、プッシュ型・行政サービスにより「確実な給付」を実現するためには、銀行口座を含む個人情報とマイナンバーを紐付けする必要があり、それらの登録を義務付けるとともに、事前登録しなければ給付しない検討も必要である。
なお、政府情報システムを概ねゼロ・ベースで刷新するという重要な政治的決断を行う必要がある。2016年度におけるIT予算の総額は「約5354億円」だが、IT予算は、①整備経費(新規開発や機能改修・追加といった情報システムの整備に要する一時的な経費)、②運用等経費(情報システムの運用、保守等に要する経常的な経費)、③その他経費(国の行政機関以外の情報システムに関係する経費等)の3つに分類される。
一般的にIT予算や建設・不動産といった世界では「新規開発は全体予算の2割に過ぎず、残りの8割が維持管理費で失われる」という経験則が存在するが、5354億円のIT予算でも、新規開発などに関する「整備経費等」(①+③)が約1352億円(全体の約25%)であり、情報システムの運用などに関する「運営等経費」(②)が4001億円(全体の約75%)となっている。すなわち、大雑把にいうならば、IT予算の約8割がシステムの維持管理費となっており、2019年度のIT予算は約7000億円にまで膨張している。
いずれにせよ、ハンコの廃止も重要だが、デジタル政府を構築する目的がこうしたプッシュ型・行政サービスを強化するものでなく、行政手続きの単なる電子化に終始することになれば、それは本末転倒である。まずは、デジタル政府を構築する「真の目的」に関する議論を深める必要があろう。