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米国における産業クラスターの発展―ケーススタディ2:ピッツバーグ
画像提供:Getty Images

米国における産業クラスターの発展―ケーススタディ2:ピッツバーグ

May 29, 2023

R-2023-014

はじめに
現状
歴史と政策
ピッツバーグ地域の経済構造転換の背景分析
日本への示唆

■はじめに

ピッツバーグは、かつて栄えた鉄鋼業を中心とする製造業の縮小から、経済構造を多様化させることで衰退から脱却を果たし、近年はイノベーションの文脈においてもロボティクスや医療、ソフトウェアを中心とした研究開発や新興企業の創出で全米を牽引している都市である。この都市が如何に経済再生を果たしたのかを概観し、日本への示唆を述べる。

■現状

米国北東部に位置するペンシルベニア州は、米国の歴史において最も古い州のひとつである。ペンシルベニア州第2の都市であるピッツバーグは、米国を代表する河川が流れていることから水の街、また鉄鋼業で栄えたことから鉄鋼の街として長く知られている。

ピッツバーグが注目される理由は、70年代の日本からの輸出伸長などにより、かつて栄華を極めた鉄鋼業を中心とする製造業が著しく衰退したものの、30年をかけて複数の先端産業を有する経済構造の転換に成功したからである。2009年のG20サミットでは、ピッツバーグは21世紀型経済の好例として選ばれ、同年9月にバラク・オバマ大統領(当時)が「ピッツバーグは、21世紀の経済に移行しながら新しい雇用と産業を創出する方法を示す大胆な例」と述べるまでに至っている。

現在、経済構造は多様化しており、サービス、医療、高等教育、観光、銀行、ハイテクなどの領域が分散している。2021年時点で30万人程度の人口を抱え、7つの郡からなるピッツバーグ都市圏の年間GDPは1,680億ドルと推計されており、The U.S. Census Bureauによると、ピッツバーグ地域は米国で27番目に大きな地域経済圏となっている[1]。また近年は自動運転や医療用ロボティクスなど、カーネギーメロン大学やピッツバーグ大学による産学連携からイノベーションが生まれる都市として知られている。

中沢(2019)によると、「2010年に279社であったピッツバーグのテクノロジー企業数は 2018 年にはほぼ2倍の495社となっており、2018年までの過去10年間においてAmazon、Autodesk、Delphi Automotive、IBM、Philips Healthcare、Yelpなどにより買収されたピッツバーグ発のテクノロジー企業は80社以上、IPOも含むイグジットによりこれらの企業が獲得した資金額は 87 億ドル以上に上っているほか、Uber、Facebook、Apple、Bosch、GE、Tata Technologies等の大手テクノロジー企業はピッツバーグに技術研究拠点を相次いで設置している」[2]としており、先端産業の集積が続いている。

■歴史と政策

・鉄鋼業の衰退と繁栄

南北戦争以前、オハイオ川を下る開拓者がピッツバーグに殺到し、次第に造船業やガラス産業、鉄鋼業などが生まれていたところに、南北戦争による鉄鋼需要の高まりがピッツバーグを軍需産業の一大拠点に成長させた。

南北戦争後、鉄鋼王アンドリュー・カーネギーがピッツバーグ近郊に製鉄所を建設。 1870年代には大きく成功を収めるようになる。同氏が創業したカーネギー・スチールが1901年に全米最大の鉄鋼会社USスチールに売却された後、同社とJ&Lスチールが地域経済を支配した。1920年代にはピッツバーグは国内の鉄鋼生産量の約3分の1を生産し、第2次世界大戦を経て約半世紀の間、米国鉄鋼業の中心地として栄華を極めた。経済誌Fortuneが毎年発行する企業番付 500 社では、ピッツバーグには、1985 年時点でそのうち 17 社(ガルフ石油、USスチール、ウェスティングハウス、ALCOA、ナショナル製鉄等、重工業の中軸を占める企業群をはじめ、メロン銀行、ピッツバーグ・ナショナル銀行といった大手銀行等)が本社を置き、その数はニューヨーク市、シカゴ市に継ぐ全米第3位であった[3]

ところが、1960年代から徐々に国際競争力をつけていた日本の鉄鋼業の輸出攻勢により、1980年代初期から中期にかけて鉄鋼産業は事実上崩壊(1982年には当時世界最大の鉄鋼会社であったUSスチールが記録的損失を計上)し、ピッツバーグ地域の鉄鋼労働者の多くが失業するなど、いわゆる「ラスト・ベルト」として知られるようになる。中国・韓国・台湾を中心とした新興国の追い上げに対し国際競争力を失いつつある昨今の日本の製造業の現状と重なる部分がある。

・経済再生への布石

このような中、主要産業の衰退に危機感を持った地元政財界、学会を中心とした有識者らは、経済再生のために先端技術を中心とした新産業創出に注力するようになる。

まず行われたのは、大学等における高い専門知識及び技術に基づく研究開発プロジェクトを雇用につなげるため、リチャード・ソーンバーグ・ペンシルベニア州知事(当時)の下で 1983 年に開始された「Ben Franklin Technology Partners(BFTP)」プログラムである。これは、アーリーステージから既存の大手企業まで将来性のある様々な事業を対象に、資金や技術、ビジネスに関連する経営資源を提供する米国で最も歴史の長い経済開発プログラムとなった[2]

次に行われたのは、1985年に行われた官民パートナーシップによる地域再生戦略「Strategy 21」の策定である。これは、ピッツバーグ市と同市を含むアレゲニー郡の自治体政府が、地元大学であるカーネギーメロン大学及びピッツバーグ大学と連携し、旧工場跡地の再開発や新国際空港の建設など、地域の産業再生に必要なインフラに投資したもので、教育、保険、金融サービスや両大学に蓄積された技術研究分野など新たな産業分野の発展に注力することで、製造業のみに依存しない産業構造の転換を図った[2]

更に1986年には、ピッツバーグ大学から附属3病院を分離してUniversity of Pittsburgh Medical Center (UPMC)として独立させることが行われた。ピッツバーグ地域の将来産業の一つとして医療産業をターゲティングし、先端産業集積の育成を図ったのである。

・市の財政破綻を経て、イノベーション主導の経済へ

1980年代にかけて経済再生に向けた施策は次々と打たれたものの、人口減少は止まらず、1990年代にかけては、いかに優秀な若手人材を地元につなぎとめるかが課題となる。その課題解決のために行われたのがいわゆる「ハコモノ投資」であったが、過大な投資のために持続不可能となり、ピッツバーグ市は2003年に財政破綻の憂き目にあう。

その陣頭指揮を執ったのは、1990 年代のピッツバーグ市再開発を主導したトム・マーフィー市長(当時)であった。カーネギーメロン大学の優秀な卒業生を繋ぎとめるために、市経済の再生をプロ・スポーツ施設やコンべンション・センター等の建設と、大規模な中心部商業再活性化計画に賭け、一流の娯楽・文化施設を提供するという基本戦略を取ったが、多額の負債を抱えることになり[3]2003年夏にピッツバーグ市は財政破綻する。

市の財政破綻後は、事実上ハコモノ投資が実行できなくなったことから、ペンシルベニア州主導でソフトの充実に力点が置かれるようになる。例えば、2004年にエド・レンデル・ペンシルベニア州知事(当時)が経済刺激策の一環で立ち上げた「Keystone Innovation Zone(KIZ)」プログラムは、同州において 29 の主要高等教育機関周辺のイノベーションクラスターに大学卒業後も優秀な学生をとどめ、地元での起業活動及び雇用創出を促進することを目指したもので、当該地域に拠点を置く創業 8年以下のライフサイエンス及びテクノロジー分野の企業は、最大年間 10 万ドルの 税額控除を受けることができるというものである[2]

また、時期は前後するが、2002年に地元財団とペンシルベニア州が技術スタートアップのアクセレレータープログラムであるIdea Foundryを設立し、ヘルスケア・生命科学、先端材料などの分野においてイノベーション・ライフサイクルの最も初期の段階のイノベータの支援を開始した[4] [5]

このような30年にわたる産官学連携を伴った地道な取組が功を奏し、2010年代にかけてピッツバーグはカーネギーメロン大学およびピッツバーグ大学発のソフトウェア、ヘルスケア、ライフサイエンス、AI/ロボット分野のスタートアップ企業が次々と創業される米国有数のテクノロジーハブへと変化することになる。また、AppleUber等、シリコンバレーを代表するIT企業が次々と研究開発拠点を設置するに至った。事実、2014年にはピッツバーグ地域における(学術機関を除く)科学及び研究開発分野の職数は、同地の製鉄工場における職数を上回った[2]

一方で、2017年には、トランプ大統領(当時)がパリ協定からの離脱を表明した際、「私はピッツバーグ市民により選出されたのであり、パリ市民ではない」と発言したことに対し、ペンシルベニア州西部地域の製造業者、発電所の労働者、炭鉱作業員などを代表する地元の共和党政策関係者の強い支持を集め[2]、引き続きテクノロジー主導経済における社会包摂が課題となっている。

■ピッツバーグ地域の経済構造転換の背景分析

ここではピッツバーグ地域の経済構造転換の背景について、以下分析を行ってみたい。

a.カーネギーメロン大学、ピッツバーグ大学を中心とした先端研究蓄積/産官学連携/人材移動と地域経済を超えたビジョンの実現

ⅰ.有力な研究大学(カーネギーメロン大学およびピッツバーグ大学)の存在

1.カーネギーメロン大学は、1900年に鉄鋼工場で働く低技能労働者の子供たちからエンジニアを育成するため、カーネギー技術専門学校として設立された。1967年にメロン工業研究所と合併した後、製造業や産業界におけるイノベーションの精神を受け継ぎ、AI/ロボティクス、コンピューターサイエンス等を強みとしている[2]1940年代にはビジネススクールを設立、1960年代にコンピューターサイエンス、1970年代にはロボティクスの研究を始めており、製造業からの脱却に向けた布石が早くから打たれていたことが伺える。1996年には、NASAの資金援助を受けカーネギーメロン大学のロボット工学研究所内にNational Robotics Engineering Center(NREC)が設立されているが、これらの研究土台が、2010年代における自動運転技術の開発等につながり、前述のグーグルやUber等のシリコンバレー企業の研究開発拠点誘致につながっている。また、ピッツバーグ大学は1787年に私立大学として設立され、現在は総学生数3万人弱を有し、傘下のピッツバーグ医療センター(UPMC)での研究も含め、特に医療分野で全米に知られている。医療分野の他、工学、コンピューターサイエンス等の研究でも名高い。このようにピッツバーグ地域には、分厚い先端技術研究の蓄積が存在する。


ⅱ.高度人材の産官学の行き来の存在と地域経済ビジョンの構築

1.このような両大学の研究者が、産官学の間を行き来しながら、ピッツバーグの将来ビジョンを作り、各所でビジョンの実現を図っていることが大きい。例えば、2017年までカーネギーメロン大学の学長を務めていたスブラ・スレッシュは、2010年から2013年まで全米科学財団の理事を務めていた人物である。また、ピッツバーグ大学のパトリック・ギャラガー総長は、2009年から2014年まで米国立標準技術研究所の所長を務めていた人物である。またカーネギーメロン大学で長くコンピューターサイエンス及びロボティクスの教鞭をとっていたアンドリュー・ムーアは、グーグルのピッツバーグオフィスの設立に関わったのち、再度同大学のコンピューターサイエンス学部の学部長として戻っているケースなどもある。これ以外にも高度人材の産官学の行き来が頻繁に行われているケースは数多くみられ[6]、一地域経済を越えた国家レベルの産業ビジョンの構築/実現につながっているとみられる。

2.これらの結果、先端産業構築のためのピッツバーグ市を超えた広域的な取組み実現している。例えば前述のUPMCは、ピッツバーグだけではなく、全米及びグローバルトップレベルの医療産業集積を築くという目標の下、傘下病院40、年間収入230億ドルを超える全米最大規模の医療事業体に成長している[7]。また、全米の中でペンシルベニア州も早くから自動運転車の試験走行と運用に関する条例を制定(2017年)し、それらに代表される規制対応の先行が、ピッツバーグ市におけるUberによる自動運転技術開発拠点の誘致や、後にFordに買収される自動運転スタートアップ企業のArgo AI2016年創業)の成長につながった。このように、たとえ人口30万人規模の都市であっても、流動性の高い高度人材による適切なビジョンの提示と連携があれば、地域主導で世界規模の先端産業の蓄積と育成を主導することは十分に可能であるように思われる。


b.財団をはじめとしたフィランソロピーマネーの役割

ⅰ.サンディエゴでも見られたように、ピッツバーグでも地域産業振興において地元財団が大きな役割を果たしている。前述の通り、かつて同地域で主要企業の本社が集積していた名残でもあるが、例えば食品メーカーとして有名なハインツの創業家によるハインツ財団や、金融業で知られたメロン家によるメロン財団などを代表とする各地元財団は、カーネギーメロン大学の先端研究プロジェクトやアクセレレータープログラム、ビジネスパークの開発に継続的に資金を提供している[8]。事実、ピッツバーグ地域のフィランソロピーマネーの規模は大きく、ピッツバーグ都市圏の一人当たりの財団資産は9,126ドルで、米国平均の2,857ドルと比較すると、その恩恵は大きい[7]。このように日本国内の産業クラスター政策との比較点として、地域に根差した長期的な産業ビジョン構築とリスクマネーの供給において、このようなフィランソロピーマネーの役割の存在の大きさは、より注目されるべきであろう。

■日本への示唆

ピッツバーグにおいて、70年代から80年代にかけて製造業を中心とした主要産業が衰退したのは、当時日本をはじめとした新興国が経済的なキャッチアップを図った時代背景の中で不可避であった。この状況は、当時製造業で栄華を極めた日本が、現在中国・韓国・台湾などの新興国に技術的にキャッチアップされ、低成長経済に苦しんでいる現状と重なる部分がある。ピッツバーグの場合、いわゆる「ラスト・ベルト」に転換したあと経済構造転換を果たすまで、約30年間の年月を費やしているが、いまだ経済構造転換についてゆけない人口をどのように包摂するかが課題となっているように、製造業中心の経済を構造転換させることは超長期のビジョンと根気強い取組が必要である。

ピッツバーグ市の経済再生の事例から日本が学べることは、①世界トップレベルの研究機関の育成と人材誘致、②良好な生活環境/インフラの整備(ただし、ハコモノ投資に依存せず、ソフト面の充実を重視)による高度人材定着、③高度人材の産官学の交流促進と全体感を持った経済再生ビジョンの構築/実行、④地元に根差したフィランソロピーマネーの活用、等があげられるだろう。現在の日本と重なる経済的衰退の文脈から見事に再生を果たしたピッツバーグの事例から、経済停滞に苦しむ日本が学ぶべき点は数多い。


参考文献

[1] 2020 Population and Housing State Data, United States Census Bureau

[2] JETRO 2019,「鉄鋼都市からテックハブへと変貌したピッツバーグ」

[3] 佐藤学(2006,ピッツバーグ市財政破綻への歴史的経緯と再生への道

[4] Idea Foundry Webpage

[5] 太田耕史郎(2017),「Pittsburgh の産業と産業政策」

[6] How the Once-Struggling Pittsburgh Is Reinventing Itself as an Innovation Hub, NEXT CITY

[7] 松山幸弘(2021,コロナ禍と医療イノベーションの国際比較⑤(各論:米国)

[8] 太田耕史郎(2020),「地域産業振興の原動力としての企業家の慈善活動」

 

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