上席研究員
加藤創太
米国大統領選は第3の候補の出現も噂されるが、民主党のヒラリー・クリントン候補と共和党のドナルド・トランプ候補との一騎打ちになるようだ。著名な両候補の一挙一動についての報道はこれまでにないレベルで過熱するだろう。世論調査結果も日々変動し、世界の最高権力者をめぐるデッドヒートを世界中の人々が固唾をのんで見守ることになる。
選挙結果を決める要因は何か。これは政治学で最も重要な問いの一つである。これから大統領選に向け、選挙公約の違い、副大統領候補の資質、テレビ討論での一挙一動、果ては候補者のファッションまで取りざたされるだろう。日本では1994年の選挙制度改革の際に「有権者は候補者の好き嫌いではなく政策の中身で投票先を決定すべきだ」という考えが圧倒的に支持された。背景には、有権者は政党や候補者の公約を読み比べ、それを基に自らにとってより望ましい政党や候補者に投票する、という考えがあった。これは、政治経済学の合理的投票モデルに通じる考え方である。この理想化された考えに沿い小選挙区制度が導入され、その後のマニフェスト選挙の熱狂と幻滅へとつながった。
しかし合理的投票モデルは実証的なサポートを十分に得られていない。他方、政治学者の緻密な実証分析の多くが行き着くのが「It’s the economy, stupid(愚か者、結局は経済なんだよ)」という結論である。つまり選挙結果の最大の決定要因は経済だということだ。米国は特にそうだが、その他の先進民主主義国家でも経済が投票結果に大きな影響を与えることが示されてきた。「経済が社会や政治を規定する」というマルクスの預言は、民主主義制度下の有権者の投票行動を通じて具現されているのである。
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では経済はどのような経路で選挙に影響を与えるのだろうか。90年代の日本の選挙制度改革論者やその後のマニフェスト論者が念頭に置いていた合理的投票モデルでは、有権者は選挙前に政党や候補者の経済政策についての公約を並べて比較し、それぞれの自分にとっての損得を丹念に吟味し、自分にとって最も「得」な経済政策を公約に掲げた政党・侯補者を選び出し投票する。しかし実際にそんなに暇な有権者はいるのだろうか? 有権者にはそれぞれ本業があり忙しい。自分の1票で選挙結果を左右できないのに、各党・候補者の公約を丹念に比較吟味する時間など普通はない。大多数の有権者が各党・候補の政策スタンスやイデオロギーについて驚くほど少ない知識しか持っていないことは、世界各国の膨大な実証研究によって示されてきた。
忙しい有権者は、それでも限られた時間内でより良い選択をしようとする。そのーつの手段として業績評価投票がある。つまり与党の業績が良ければ与党に投票し、悪ければ野党に投票するという投票行動だ。経済についての業績評価投票では、与党の政権在任中の経済状態が良ければ与党に投票し、悪ければ野党に投票する。これなら各党の政権公約を取り寄せ比較吟味するような時間と手間は省きつつ、それなりに良い選択ができるはずだ。
経済状況と選挙結果とはどの先進民主主義国家でも強く連関しており、業績評価投票が行われている一つの証とされる。プリンストン大学政治学部のクリス・エークン教授らは今年になって出版した書籍の中で *1 、1952年以降の米国大統領選において、選挙直近2四半期(6力月間)の国民1人当たりの可処分所得の増減と、与野党間の得票差とが驚くほど密接に連関していることを1枚の図表で示した (図1) 。
図1 米大統領選と経済の関係
出所 Democracy for Realists(Achen & Bartels 2016)
その分析によると、直近2四半期における可処分所得が1%伸びると、与野党間の得票差は与党側に6%強も伸びる。世界のメディアは大統領選当日まで候補者の一挙一動を取り上げ、支持率が揺れ動く様を面白おかしく取り上げるだろうが、この分析からわかるのはやはり「It’s the economy, stupid」ということだ。他でも、米国政治学者の大統領選予測モデルは経済指標を主に用いることで、過去に非常に高い精度で候補者の得票率を予測してきた。大統領選の結果を的確に見通すため最も注目すべきなのはテレビ討論での候補者の言動やネクタイの色でも、日々変動する支持率でもなく、経済指標ということなのだ。
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エークン教授らは一連の分析結果から、もう一つの重要な結論を導いている。それは有権者が過度に近視眼(myopic)ということだ。たとえば業績評価投票を適切に行うとすれば、大統領の任期全体(4~8年)の経済指標の増減が投票結果に影響を与えるはずである。しかし彼らの綿密な分析結果で得られた結論は、有意な影響を与えてきたのは直近2四半期の経済指標の変化のみということだ。エークン教授らの分析結果が正しければ、与党政治家は選挙直近に各種の経済政策を発動して経済状況を好転させ、自らの得票を増やそうと思うだろう。これは政治経済学の代表的な理論である「政治的景気循環論」の考え方につながる。
こうした考え方にまさに当てはまりそうなのが、日本の安倍政権の経済運営である。選挙直前に消費増税延期を表明したのは衆参の違いこそあるがこれで2回連続である。エークン教授らの言うように有権者が近視眼であれば、消費税増税延期は選挙にプラスの影響を与える可能性が高い。過去の増税時に見られた買い控えなどの経済へのマイナス効果を一時的に回避することが可能となるからである。しかし消費増税延期は直後に実施される選挙のはるか先にまで影響を与える。膨大な公的債務をさらに増やすことで、借金の付け回しをされるのは将来世代だからだ。しかしそういった遠い将来まで見通して投票行動を決定するには、近視ではなく遠視の投票者が求められる。
今回の参院選ではほぼすべての与野党が消費税増税延期を主張したため、残念ながら消費税増税問題は主要な争点とはならなかった。しかし経済問題につき、11月の米国の大統領選でも、今回の日本の参院選でも本質的に問われていたのは、日米の忙しい有権者たちの視野の長短なのである。
*1 Achen, H. C. and L. M. Bartels, 2016. Democracy for Realists: Why Elections Do Not Produce Responsive Government. Princeton: Princeton University Press.
(2016年6月12日付『日経ヴェリタス』より一部加筆して掲載)