R-2022-095
1.はじめに
COVID-19のパンデミックは、世界中の国々に対して、政治的、社会経済的、科学的、公衆衛生的な大きな課題を突きつけており、スポーツ、音楽、宗教行事などの大規模な集団集会イベントは、一つの争点となっている。東京2020夏季オリンピック大会(2021年7月23日~8月8日)は、COVID-19の第5波の真っ只中、感染者数が増加していた第4次緊急事態宣言と重なる時期に開催された。日本では、COVID-19の感染拡大を懸念してオリンピックを開催すべきかどうか、国民、政府、科学者の間で意見が分かれた。結果として、政府は開催中のリスクを最小化するために、選手を含む大会関係者に積極的なワクチン接種を推奨し、観客の入場禁止を含むあらゆる感染対策が講じられつつ開催されることになった。
オリンピック委員会によると、オリンピック関係者の感染者数は547人[1]だった。しかし、感染したオリンピック関係者から地元住民への直接的な感染というよりは、大会開催自体が、それまで非常事態下で自粛していた国民の行動心理に影響を与えたのではないかという仮説もまた成り立つ。もし、オリンピックが間接的に公衆衛生的施策の遵守率を低下させたのであれば、日本の感染状況にも具体的な影響があったかもしれない。本研究では、オリンピックとCOVID-19の日別感染者数の関連性を、オリンピックがなかったと仮定した場合の反事実的推移をSynthetic control method(SCM)[2]により構築し、近似的に検討した。
2.方法
東京オリンピックが開催されなかったと仮定した場合の反実仮想的な感染者数の推移を推定し、観測されたデータと比較することによりCOVID-19の1日当たりの確定感染者数(100万人当たり)に対するオリンピックの影響を評価した。COVID-19日別感染者数は、曜日の影響を考慮するために7日移動平均を用いて平滑化した。SCMでは、大会が「開催されなかった国」(以下、ドナープール)におけるCOVID-19の感染者数の推移のデータを(平均二乗予測誤差(MSPE)の意味で最小になるように)加重平均した時系列を推定する。もし、SCMが、日本におけるオリンピック開始前の期間に観測された推移を(MSPEの意味で)忠実に再現するならば、オリンピック開始後の反事実の推定値の妥当性が十分にあると考える。このアプローチの重要な利点は、オリンピック開催国(すなわち、日本)と十分に類似した比較国を個別に特定する必要がなく、加重平均で複数の国を指定することが可能な点である。
COVID-19検査数、ワクチン接種率、各国政府のコロナ対応の厳格度指数において10%以上の欠損値を持つ国、あるいは完全に欠損した結果を持つ国を除外した結果、42カ国がドナープールに含まれることになった。その他の予測変数などの詳細は参考文献[3]に記載している。また、オリンピックによる有意な効果があるかどうかを確認するために、Abadie ら[4] が示したように、開会式後の MSPE を開会式前の MSPE で除して Fisher's Exact p-value を算出した。その他の解析の詳細は参考文献[3]を参照のこと。
3.結果
図1:100万人当たりのCOVID-19感染者数の観測値と反実仮想値
図1(上)は、100万人当たりの日別感染者数の観測値とSCMによる反実仮想値の時系列の軌跡を、縦軸に感染者数、横軸にオリンピック開会式からの相対日数にしてプロットしたものである。図1(下)は、上と同じ期間の観測値と反実仮想値の差分をプロットしたものである。
図を見ると、観測値と反実仮想値の差は、オリンピック開始後にプラスに転じている(縦線の右側)ことが観察される。SCMの結果、オリンピック閉会日(16日目)時点の人口100万人あたりの1日あたりの感染者数は109.2人で、人口100万人あたりの感染者数51.0人の反実仮想値より115.7%高い可能性があることがわかる。また、オリンピック開催期間中の実際の累積感染者数は143,072人であり、SCMにより推定された(仮想的な)累積感染者数89,210人より60.4%高いことがわかり、観測された感染者数と反実仮想の感染者数の間には約10日間のラグがありことが判明した。閉会式時点においては、反実仮想の累計感染者数は閉会式当日に約6,400人となるが、実際にはそれより10日早く到達した(2021年7月29日)。
4.考察
本研究では、SCMを用いて、東京オリンピックの開催が日本におけるCOVID-19感染者数の増加と関連するかどうかを評価した。観測値と反実仮想値の差に基づき、オリンピック期間中に約53,900件の過剰感染が追加で観測された可能性があることを明らかにした。
従来の研究では、大規模なスポーツイベントが感染症発生のリスクを大幅に高めることはないとされてきたが、これほど大規模なパンデミック時にオリンピックが開催されたことは、これまでなかった。日本では、バブル方式などにより新しい感染を一般市民から隔離することにほぼ成功したが、大会の開催により、感染が増加することが本研究により明らかになった。このパラドックスは、様々な理由でローカルでの感染が増加したことによって説明できると考えている。例えば、第一に多くのレストランが営業時間の門限を無視するようになったが、これは非常事態の中でオリンピックを開催するというダブルスタンダードの認識によるものである可能性がある。第二に、オリンピック開催時以外でも、アスリートは感染予防対策に関して一般市民の模範となる可能性があり 、大会開催時にはその効果が増幅された可能性がある。つまり、オリンピック選手の感染対策ルール違反が話題になったこと自体が、一般市民の(マスクや手洗い、三密を避けるなどの)公衆衛生施策の遵守率に影響を与えた可能性がある。最後に、大会期間中、東京に観客や観光客がいなかったにも関わらず、オリンピック期間中の人の移動は、前回の第3次緊急事態宣言下での移動量よりも大きかったことが挙げられる。
ただし、本結果の解釈にも以下のような留意点がある。まず、SCMでは、大会とほぼ同時に発生した別イベントの影響を完全に排除することは困難である点だ。例えば、連休や夏休みの開始など、他のいくつかのイベントが我々の結果にバイアスをかけている可能性がある。そのような懸念に対処するため、介入のタイミングを7月23日から16日、30日にそれぞれずらしたSCM分析をさらに2回実施した結果も参考文献[3]では報告している。第二に、我々の分析には、オリンピック期間中の行動変化や感染経路に関するデータは含まれていない点が挙げられる。したがって、個人レベルの感染メカニズムについては詳細な評価を行うことができなかった。これらの疑問点を解決するためのさらなる研究が必要である。
最後に、2000年代に入ってから新たな疫病が報告される頻度が高まっていることを考えると、今回の知見は、COVID-19や将来のパンデミックにおけるメガイベントに対する重要な示唆を与えるものであると考えられる。特に、2024年のパリ夏季オリンピックについては、参加者、観客、国民すべてにとって安全で健康的な大会となるよう、さらなる研究を進めていくことが望まれる。無論、日本でも2025年に大阪万博が開催予定である。東京オリンピックについて、現時点では非公表とされているデータをも含めた科学的検証を行うことを通じ、これまでの人類史において数少ない、パンデミックの最中に開催された大会の教訓を活かしていかねばならない。
参考文献
[1] Bengali S. An Olympic beach volleyball match is decided by a Covid infection. New York: The New York Times, 2021. https://www.nytimes.com/2021/07/23/sports/olympics/volleyball-cancelled-covid-czech-japan.html
[2] Abadie, Alberto, Alexis Diamond, and Jens Hainmueller. "Synthetic control methods for comparative case studies: Estimating the effect of California’s tobacco control program." Journal of the American statistical Association 105, no. 490 (2010): 493-505.
[3] Yoneoka, Daisuke, Akifumi Eguchi, Kentato Fukumoto, Takayuki Kawashima, Yuta Tanoue, Takahiro Tabuchi, Hiroaki Miyata, Cyrus Ghaznavi, Kenji Shibuya, and Shuhei Nomura. "Effect of the Tokyo 2020 Summer Olympic Games on COVID-19 incidence in Japan: a synthetic control approach." BMJ open 12, no. 9 (2022): e061444. https://bmjopen.bmj.com/content/12/9/e061444
[4] Abadie, Alberto, and Javier Gardeazabal. "The economic costs of conflict: A case study of the Basque Country." American economic review 93, no. 1 (2003): 113-132. doi:10.1257/000282803321455188